飯野慎哉
1981年生まれ / 出身地:京都 / バンコク在住
HPS Trade Co.,Ltd – CEO
【活動実績】
タイで活動する起業家。月間2,500本のコンテナを輸出入する国際物流グループ会社の社長。初年度の経常利益 約2,400万円。売り上げよりいかに利益を残すかを意識して事業展開・会社経営をしています。
このブログを更新する目的
執筆中のブログ「ベッカク」では現在海外で活動されている方や海外進出を計画している方たちに向けて、「別の角度」で物事を考察できる「別格の存在」となるように、実際に役に立った事例や やらかしてしまった失敗事例なども含めてご紹介していきたいと思います。
以下に私の詳しい自己紹介をさせて頂きます。3万文字ほどあるのでお時間のある時にでも読んで頂ければ幸いです。
転落編(26歳〜29歳)
はじめまして。飯野です。
現在、私はタイのバンコクにて商社・物流会社を経営しおります。バンコクに移住したのは2014年2月からでして、バンコクに来る前やそして来てからも、沢山の失敗をしながら、何とか今の状態までたどり着きました。
今回は自己紹介として、私の失敗談(メイン)と成功事例を赤裸々に書いていきたいと思います。少し長くりますが、お時間のある時に読んで頂けましたら幸いです。
調子に乗りすぎた20代後半
私は大学を卒業してオーストラリアに1年7ヶ月程留学をしていました。23歳から25歳までの時ですね。そして25歳の時に東京の商社に新卒扱いとして入社しました。
当時は部署で英語が話せる人が少ないという事で、ありがたい事に色んな海外で仕事をさせて頂く機会を頂いたんですが、どうもそのときの上司と合いませんでした。
「この会社にいても自分の将来は上司とか先輩と同じになっちゃう」という不安と苛立ちから副業を開始しました。
※タイに移住した後にその当時の上司に謝罪に行きました。
自由になるんだ!
素人が斬新な副業を始める
最初の副業は中国語の文法を英語で学ぶという斬新な教材でした。ビジネスの経験など全くない若者が考えるような事です。
当時の私は留学のお陰で英語が出来き、会社に入ってから中国語を自分で勉強していましたから。英語と中国語って文法が凄く似ているんです。あと日本人だから漢字も使うじゃないですか。
英語をマスターした自分が短期間出中国語を理解出来たのも英語と日本語のおかげだと思って、また情報商材も流行り始めていたのでやってみました。
全く売れませんでした。。
並行輸入でひとやま当てる
そして、次に始めたのが並行輸入です。並行輸入とは日本で既に代理店のあるブランドの商品を海外から安く仕入れて販売するという今で言う海外仕入れの転売です。
これが当たりました。月収でいうと70万円くらいの利益を毎月出せていました。26〜27歳くらいの兄ちゃんが本業の給料を合わせて毎月100万円くらい手にするわけです。
それはそれは調子に乗ってしまいました。
自己啓発をしまくる
あまり物欲のない私は、儲けたお金で自己啓発のセミナーとかにかなり参加しました。3日で50万円するジェイ・エイブラハム(世界的マーケティングコンサルタント)のセミナーに26歳の兄ちゃんが行くわけです。
周りの人たちは経営者ばかり。自分は凄いのでは?と勘違いしてしまいます。
またビジネス心理学系のセミナーにも130万円くらい出して参加し、年上の経営者様たちと仲良くさせて頂きました。これも自分は凄いと思い込む勘違いの原因の一つです。
他にもマーケティングのセミナーや教材に140万円程 使って、今思えば勉強している自分に酔っているようでした。
こんなに稼いでるし勉強もしてるんだから独立出来るな!
そんな自分は凄いと勘違いした若者は 会社をやめて独立してしまいます。当時28歳でした。
毎月家賃5,000円だった会社の寮を出て、東京の江東区の8万円のアパートに引っ越しして、知り合いのつてで共同オフィスを借りて活動を開始しました。
いきなり暗雲が立ち込める
当時の並行輸入では当時は円高という事もあり、為替と自前の英語の交渉力とで、かなり安く商品を仕入れてネットで販売をしていました。
並行輸入というのは割と簡単です。日本で売れている商品をリサーチして、海外で安く仕入れるところを探して、その値差で儲ける。
英語がそれほど出来なくても、翻訳ソフトを使ったりすると出来たりします。また為替が良かったので、ライバルたちは一気に増えていきました。
ライバルたちがしてきたのは強烈な安売りでした。私の主力商品は1個あたり2万円の利益を取っていたのですが、ライバルたちは利益がどう考えても3,000円-5,000円ほどの価格で売っていたのです。
他の商品もどんどんライバルたちに荒らされてしまいます。
荒らすなー!!
まるでイナゴが畑を食べ尽くすかのように、市場はボロボロ。私の主力商品やその他の商品も付加価値を足したといえど、価格差が大きすぎると売れなくなるのです。
そんな値下げ合戦には早々に見切りをつけて、私は並行輸入から自社ブランドや海外のブランドの「日本総代理店」の権利を得たオリジナルブランド商品を扱うようになりました。
自分の無能に気がつく
共同オフィスには他の会社も入っており、その経営者さんたちと仲良くもなりました。そこで知り合ったのが、内装屋さんと不動産投資家の人たち。
彼らは同郷ということでお互いを長く知っているようで、内装屋さんは不動産投資家さんをべた褒めしていました。
内装屋さんや不動産投資家さんにとってインターネットを使ってビジネスをしている私は珍しい存在だったようで、色んな仕事を回してくれました。
記憶に強く残っているのは、国内ブランドのりんごジュースとシードルのWEBプロモーション、そしてオーガニックコスメの輸入販売です。
りんごジュース・シードルの販売に苦戦
りんごジュース・シードルの販売は苦戦しました。普通のりんごジュースとは違い、非常にこだわったリンゴを使い、糖度がむちゃくちゃ高いりんごジュース。そしてお値段も高い。シードルも同様に美味しいけど、ライバル製品より50%くらい高い。
このプロジェクトは予算がほとんどなかったので、HPを作成したけれどもそこからの集客がとにかく大変でした。SEOに効果があると言われているテンプレートを使うも全く反応がない。
広告を使う予算もない。ブログを更新するも、そもそもりんごジュース、シードルという切り口では検索ボリューム自体が少ない。ネットからはほとんど売れませんでした。
ネットからは全然売れへん。。
当時の私は無力でした。
そこで取ったのはリアルセールス。主に売りにいったのはシードルです。「ガレット」にシードルは合うということで、ガレットを売りにしているレストランに食べに言って、リサーチをして、売り込む。
シードルは一般的なお酒とは違い少しのマイナーなとこがありますので、全く知らない人には「教育」から入らなければいけません。そんな時間もないので、すでに扱っているところに売り込む必要がありました。
それでも、かけた時間に対しては全然売れませんでした。ウェブでガンガン売っていた私にとって、商売を舐めていたと気付かされるいい経験でした。
ここら辺で貯金がなくなってきます。
コスメの定期購入ビジネスがちょいヒット
不動産投資家さんからアルガンオイルというモロッコの美容オイルの情報をもらいました。コスメなんて使ったことがないので、どうやろうかと 知り合いの女性に色々とリサーチをしてみると、このオイルは相当良い!というものでした。
このビジネスは仕入先の開拓から始まります。モロッコ大使館に電話をして、モロッコにあるアルガンオイルの販売企業の情報を入手。
そこから片っ端にメールと国際電話をして、まともな業者を選定していきました。ホームページを作り、お試しセットを作り、お客様の声として知り合いの女性たちに使ってもらう。
またエステとかサロンを運営している女性経営者さんたちも紹介してもらい、有名ブロガーと呼ばれる女性たちにもブログでアップしてもらい、オンラインとオフラインを使いまくってプロモーションしました。
精力的な活動もあり定期購入者がどんどん増えていきます。
これはイケるぞ!
詐欺師に騙される
定期購入者もだんだんと増えてきて、さあこれからだ!というところでしたが、この時の私は精神的にボロボロでした。自己資金に余裕がなかったので、不動産投資家さんから活動の報酬をもらっていました(本当にギリギリのお金)。
そうなると彼の意見を聞かないわけにはいきません。貯金もほとんどなくなっており、また定期購入者が増え続けていたのでこのビジネスはいける!と思っていたので辞めたくはありませんでした。
そうするとムチャぶりが止まらないのです。
周囲の人たち、コスメの販売者に協力してくれた人たちも だんだん私から離れていきます。1人の女性が私のことを心配してくれて、その人(不動産投資家さん)から離れた方がいいと言ってくれました。
その時の私の顔つきは、生気もなく、死人みたいだったそうです。そこでやめると決意。彼と話し合いをして、すぐに事務所も出て行きました。
これは数年後に聞いた話しですが、この不動産投資家さんは詐欺で捕まったそうです。長野の資産家で裕福に見せていたけれども実際は資産と呼べるものはなかったそうな。
非常にいい経験をさせて頂きました。
なんとか食いつなぐ
会社員とは違い仕事がなくなると一気に収入が途絶えるのがフリーランスのリスクです。この時はまだサラリーマンに戻るという考えは全くありませんでした。
並行輸入で何とか資金的に回復
貯金はほとんどありませんでしたが、この時 芸能人がテレビで紹介した商品があり、それを並行輸入で一気に仕入れたところ、飛ぶように売れました。
「笑っていいとも」で俳優の瑛太さんが紹介しているのを見て、同時にネットで検索をして海外から仕入れました。仕入れる→売るを3回転くらいしましたね。
我ながらの行動力だと思います。
資金的にはそれで少し回復。
今思えば、並行輸入を続けていればよかったのですが、また自社ブランド商品を扱ってしまいます。
自社ブランドの2商品目 – プレスリリースが当たる
あるセミナーで知り合った人が、面白い商品があるという事で、仕入れ代金を出してくれる変わりに利益折半でゴルフのアイディア商品を扱いました。
それは日本では全く知られていない商品で、カナダの小さな会社がオリジナル製品として販売していました。
並行輸入とは違いまた無名な商品を扱うわけです。広告資金もないので、どのように告知をするか考えたところ、プレスリリースを使ったメディアプロモーションを実行しました。
企画を作りゴルフ雑誌者にプレスリリースをどんどん送ります。プレスリリースの書き方・送り方は勉強と試行錯誤をしました。
商品力もあり、採用されるプレスリリースをもあったので、その商品はどんどん雑誌に掲載されていきました。
いける!と思った矢先。そのセミナーで知り合った人が、権利を返して欲しいと言ってきました。
売れてからそんな事をいうなんてムチャクチャだなと思い、突っぱねて引き続き販売をしていましたが、悪いことは重なるものです。
仕入先のカナダの会社が倒産してしまいました。
下り坂を一気に転げ落ちる
どうにか売れるものはないかと市場をリサーチをしました。ランニングが好きだった私は、皇居の周りを走っている時にコンプレッションインナー(着圧の強いピチっとしたインナー)を着ているランナーが段々増えてきたなと感じていました。
当時のコンプレッションインナーといえば、SKINSとアンダーアーマーくらいしかありませんでした。インターネットを使い仕入先をリサーチをすると、アメリカのあるブランドを発見しました。その商品群と金額を見ると、SKINSやアンダーアーマーと比べて3割近く安い。
また当時黒しかなかったコンプレッションインナーですが、ピンクや黄色といったカラーバリエーションも豊富で、女性受けするのではと思いました。
これはイケるかもしれない!
早速このブランドに連絡し、メールと電話だけで日本総代理店の権利を結びます。私が最初にコンタクトをとった担当者はとてもいい人でした。
先方も日本でのパートナーを探していたらしく、仕入れロットなどの条件もなしに、総代理店の権利を得ることが出来たのです。
気合でプロモーションしまくる
またまた無名ブランドを取り扱うわけです。カナダのゴルフ商品とは違い、商品力はそれ程ありません。なので、この商品はブランディングから始めました。
日本では誰も知らないブランドです。いくら価格的にメリットがある、カラバリがあるからといって、全く信用のないものは売れません。
私は人脈をたどり、お医者さん、トライアスロンの元日本代表選手、アマチュアトップ選手、プロゴルファー、元プロ野球選手(ヤクルト、日ハム)たちに商品を使ってもらい、ホームページで公開。
そしてプレスリリースでは、アメリカの新しいブランドが日本初上陸ということで、数々のゴルフ雑誌やライフスタイル雑誌、またウェブメディアに掲載して頂きある女性タレントにも紹介してもらいました。
ブランディングがある程度出来たところで、最初は全く売れなかった商品ですが、次第に売れ始めていきます。しかし、ここで問題が発生。
資金が完全にショートしました。
甘すぎた計画・・・
スポーツインナーということで、種類(足用、腕用、スパッツ、シャツ、足首用など)があり、サイズ(S, M, L, XL)があり、更に12種類のカラー(メインの足用商品のみ)があります。一回に仕入れる金額は約30万円。
最初のサンプリングでいろんな商品を出していくことが出来ましたが、ブランディングやプレスリリースのおかげで売れ始めていくにつれて、売れ筋商品だけが売れていきます。
この時に仕入先の担当者は変わっており、全体的に仕入れなければいけないとなっていました。売れ筋商品だけを仕入れて売るのはダメだったんです。
4回くらい仕入れた時に、売れない商品の在庫が山になり、完全に資金もショート。複数のクレジットカードで仕入をしていたのですが、カードの限度額もマックスで仕入れられません。
銀行にも融資をお願いに行きましたが、こんなギリギリのところに融資をしてくれる銀行なんてあるわけがありません。
完全に考えが甘すぎた。。
ギリギリの生活
この時、生活費を稼ぐために家の近くのあるチェーン店の居酒屋で夜11時から朝5時までバイトをしていました。時給が1,300円と高かったので。その代わり思いっきりキツかったですが。
バイトから帰り4時間ほど寝て、昼前に自分のビジネス活動をします。営業したり、ブログを更新したり、人に会いに行ったり、プレスリリースを出したり。
家も8万円のところから、知り合いたちと一軒家を借りて月3万円の家賃のところに引っ越しました。バイトを週4ー5でやって月14万円くらい。ビジネスの活動資金(仕入れ以外)もそこから捻出していました。
銀行口座にお金がなく、米もなくなり、バイトの給料日までの2日間 水だけで生活したこともあります。財布には数円しかなく、うまい棒も買えませんでした。もちろん水道や電気、ガスは頻繁に止まることもありました。
同居している知り合いたちもお金には苦しく、年長の私がやりくりをして電気・水道・ガス代を先払い。冬場の水のシャワーはとにかく寒かった事を今でも覚えています。
恥ずかしくて親にも言えなかった。。
ビジネスもうまくいかず、こんなギリギリの生活が約1年ちょい続きます。
東日本大震災発生で心が折れる
アマチュア トップのスポーツ選手を応援するベンチャー企業にコンプレッションウェアの提案をしに行った帰りです。知り合いと新宿にあるネパール料理屋さんで遅いランチをしていた時、あの地震が発生しました。
店内は停電時になり、ネパール人たちも慌てふためき、私たちも机の下でビビりまくりました。地震についてはあなたもご存知の通り最悪なことです。それについては割愛します。
この地震の影響で、今まである程度 売れていた 商品の販売がピタッと止まります。約2週間 全く売れなくなったのです。
なんとか自転車操業で無理やりまわしていたビジネスですが完全にストップしました。
入金もストップしてしまい仕入れに使っていたクレジットカードの支払いも払えなくなるという事で、もう終わりでした。
この時に完全に心が折れました。寝る時間も削り、走り回り、体力も削り、こんなに頑張ってきたのに。
残ったのは在庫と約300万円の借金でした。
※店舗系のビジネスではなく、主にネットを使ったビジネスだったので、借金はそれほど大きな額ではありません。ですが、金利18%だったので 当時の私にはかなりきつかったです。
東京で活動をしていたのですが、あのとき地元の京都に何度帰ろうかと思ったことか。しかし、最初の商社を辞める時に 親や友人たちに「成功する!」と大口を叩いた手前、簡単には帰ることは出来ません。
都落ちと言われるのが嫌で東京にとどまりました。
借金返済編 (30歳〜32歳)
借金は300万円で頑張れば普通に返済できる金額です。とはいえ、お金がなさすぎて初めて四苦八苦をしました。借金できるというのはまだ余裕があることなんですよね。私はブラックリストに乗りクレジットカードは作れないと思っていました。
1回いけるかな?と試しにカードを作ろうとして審査で落ちましたので。※後ほど審査のゆるいカード会社でカードを作ることが出来たのですが。
今回はビジネスを一旦ストップさせ、サラリーマンに戻り、借金をどのように返済していったかについてお話ししたいと思います。
派遣社員として働く
東日本大震災の2週間後 心が完全に折れてしまい一旦 自分のビジネスをストップする事に決めました。収入はバイトのみ。
一旦ビジネスの夢はストップし、サラリーマンとして務める決意をしたので、深夜のブラックな居酒屋で もう年下の店長にこき使われる必要はありません。
そして、クレジットカードの支払いがあります。バイトの給料で支払いを少し済ませ、大至急で職に就かなければいけませんでした。
そうなると正社員の職をじっくり探すという選択肢はありません。
速攻で仕事を見つけなきゃ!
英語スキルの恩恵を受ける
選んだのは派遣会社です。とにかく夜中のバイト(特に私が働いていた居酒屋)はキツかったので早く辞めたかった。私には昔取った杵柄の英語という武器がありました。TOEICは850点を持っています(留学帰国直後ですが)。
英語が話せる人を必要としている仕事を探したところ、外資の国際物流業者(フォワーダー)の業務部門で産休を取る人がいるという事で、即採用となりました。これは非常にありがたかった。
英語なんて海外で仕事したり、旅行で使えて便利だなとくらいにしか思っていなかったのですが、この時ほど自分の英語力に感謝したことはありませんでした。
楽すぎる昼間の仕事
物流業者の業務の仕事はそれはそれは楽でした。居酒屋では洗い物中にグラスで指を切ってもバンドエイドをして、洗い物中を続行したり、すぐにビールを注いだり、配膳して、机をかたずけてとか、死ぬほど忙しかったし。
更に睡眠時間を削って自分の商売の為にずーっと活動していた私です。9時から18時までの間 PCに向かって英語で海外の業者と決まったやり取りをして、書類を作る仕事は楽すぎました。
栄養不足で体調をすぐに壊す。。
しかし、お金がなかった私。昼ご飯は毎日 すき屋と吉野家の280円の牛丼でした。もちろんサイズアップやトッピングなんて贅沢は出来ません。
あれだけ毎日 牛丼を食べていたせいか、体調はよくありませんでした。すぐに風邪をひいてしまったんです。食事が本当に大切だと実感できた良い機会でした。
食事・栄養は大切・・・。
アルバイトを始める
派遣で働いて3ヶ月で慣れてしまったのですが、急に別の同じ部署の人が辞めちゃったので更に3ヶ月間くらいは1人で2人分の仕事をしていました。
私的には残業代が稼げてラッキーくらいに思っていたのですが、そのポジションに別の人の採用が決まり残業出来なくなりました。そしたらお金が稼げません。
18時くらいに仕事が終わるので、どうせならアルバイトをして借金を返済していこうと思いました。
早く家に帰っても暇なんだよな。
ちょうど家の近くのサイゼリアでバイトを募集していたのでキッチンスタッフとして20時から2時間まで働くようになりました。この時にサイゼリアの業務の凄さをバイトで体験することが出来ました。
バイトで未経験だったとしても、1ヶ月ほどのトレーニングでなんでも作ることができるようなオペレーションシステム。包丁を使わずハサミとパスタ用の鍋とオーブンで殆どの料理が完成します。
ホールスタッフも1ウェイ3ジョブをこなし、とにかく効率よく仕事ができるようになるんです。とても良い経験にはなったのですが、少しだけ問題が発生します。
起床が7時で9時から18時まで派遣で仕事。家に帰って食事をとって20時から2時までバイト。帰って風呂に入って寝ると3時くらいです。
そしてまた7時に起床。また睡眠不足になり、日中の業務が眠くてたまらないようになりました。
超眠いよ。。
コピーライティングに出会う
日中の業務は常に忙しいわけではありません。あるマーケティング会社のメルマガをとっていて、たまたま、仕事の暇な時に読んだ内容に「コピーライティングを習得しないか」というような文言がありました。
コピーライティングというものは、当時 自分でビジネスをしている時の友人が、コピーライティングをしていたので知っていました。そう言えば彼はアメリカの教材とかを使って勉強して、結構稼いでいたなと思い出しました。
もともと私はマーケティングを勉強していましたし、ジェイエイブラハムもコピーライティングを書いています。マーケティングとコピーライティングというのは一緒にやったほうが良いんだなと思い、7万円くらいのするそのコピーライティング教材を購入しました。
7万円あれば借金も返済出来るけどという葛藤はありながらも、さすがに昼の派遣会社と夜のバイトを3年以上続けるのは辛すぎる思い、清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入です。
コピーライティングの魅力
コピーライティングの勉強は非常に新鮮でした。最初はただ単にバシッと決め言葉を書くようなものなのかと思っていたけれども、しっかりとリサーチをして、人間心理も勉強しながら、お客に行動を取ってもらうための手段だという事が最初の印象です。
特にリサーチについては一般的な学術的なマーケティングのリサーチとは違いとにかく実践的で、確かにこの事について調べるとビジネスの組み立て方からガラッて変わると実感しました。
早速 コピーライティングで仕事をとる
私はコピーライティングという武器を手に入れました。夜のバイトの回数を減らしコピーライティングでお金を稼いで借金を返済しようと思ったのです。
経験のある並行輸入とかはお金がないし、クレジットカードもないから出来なかったので、コピーライティングのようなサービスを売るしかなかったんです。
26歳のころから独立を目指して勉強会だとか、起業塾に入って活動をしていたので、私には起業家の友達がいました。
その起業家仲間に最近コピーライティングを習得したから、セールスレターを書かせて下さい!とお願いしたところ、友達は快諾。
持つべきものは友達や。。
しかも10万円の報酬まで支払ってくれませした。なんという事でしょう。スキルがいきなりお金がに変わったんです。
今思うとその時のコピーは大した結果は出ていませんでした。しかし友達は私の事を気遣ってか報酬までくれたんです。本当にありがたい。
もちろん友達以外にからも仕事を取らないといけません。とある集客に関するセミナーで、参加者たちと話しをしている時にコピーライターだと自己紹介をしました。
運が良い事に、その人(整体院経営者)はコピーライターを探しているとの事で、1本目のセールスレターを5万円で書かせていただく事にななりました。
1本目のセールスレターを書く時にリサーチをしっかりとしたおかげで、その社長さんから「ここまでリサーチしてくれるんですね」と褒めていただき、更に2本目のセールスレターを10万円で受注しました。
真面目に仕事をしていると良いことがある!
更にコピーライティングを勉強する
コピーライティングの仕事を通して ある程度お金が出来ましたが、借金を返せば良いものの、さらに高いコピーライティングの教材を購入してしまいました。
勉強をして知識は上がったのであとはそれをアウトプットしなければいけません。
ある日、人からの紹介で美容商品のセールスレターを書く仕事を頂きました。また報酬が10万円入ります。
新しい教材をで勉強会した事、特にリサーチですが、それをまたしっかりとする事でありきたりな美容商品にならず、注目される企画を作ることが出来ました。
この時にコピーライティングは「コンセプト」が重要だと仕事を通じて学ぶ事が出来ました。
企画を考えるのは楽しい。
このクライアントもリピートで仕事を依頼してくれましたが、リサーチして、企画を作り、そして書き終わってから、最初からリサーチのやり直し依頼などがありました。
仕事を正しく進める事の重要性も実感する事が出来ました。後から思う事ですが、こんな感じで無茶を言うクライアントは結構いますね。
他にも司法書士さんの相続セミナーのチラシのコピーを作らさせて頂いた事もありますし、コピーを作る時の企画力を買われて自動掃除ロボットの販売企画担当として1つのプロジェクトにも加わらせていただく事もありました。
色んな案件のコピーを書きましたね。
意外と減らない借金
コピーライティングの仕事案件を立て続けに取ったのですが、借金は思ったほど減っていませんでした。そりゃ高額な教材を購入するとキャッシュは普通に出て行きます。この時、派遣会社で働くようになってから1年半くらい。
私としてはバイトやコピーの仕事があるからすぐに借金を返す事が出来ると思っていたのですが、あまり減らない借金のせいで重要な事に気がつきました。
派遣会社ってボーナスないよね。
私より半年くらい後に正社員として入ってきた女の子が普通にボーナスを2回もらっています。一方、1年半勤めた私にはボーナスなし。
まあ、その分 バイトとかコピーの仕事とか気兼ねなく出来たのですが。とはいえ、借金返済にはボーナスが必要だと思うようになりました。
派遣先から正社員にならないかと誘われる
派遣先で働いていた外資系の物流業者からは正社員にならないかというオファーはありました。その条件はカタールで1年の駐在をする事。
正社員のオファーを受けたときは派遣にも関わらずルート営業をするようになっており、既存顧客の取引を拡大する事が出来ていたので。
カタールの駐在。カタールについてインターネットで調べてみると、宗教的な理由からお酒はダメ。あまり街も発展していない。正社員になれると言えど、カタールに行く理由はありませんでした。
酒の飲めない国には行きたくない。。
しかし、私の目的はボーナスです。派遣で働きながら人材紹介会社を使い、正社員で働けるところを探します。
やっぱり商社かなと思い始める
25歳で留学から帰国し、そこから独立をしたといえど私がずーっとやって来た事は「安く買って高く売る」というトレーディング(商社)の仕事でした。
やはり商社なのかなと思い、東京の商社で仕事を探しをしたところ、すぐに採用確定。東京にある雑貨商社の商品企画部でした。
ここでは海外の商品を日本で売れるようにカスタマイズする企画を作り、実際に輸入までするという仕事でした。
まさに今まで自分がやって来た仕事だ!
売れる商品を探し、輸入という物流もあるし完全に経験者です。更に売れる商品にカスタマイズする企画というのはコピーライティングの企画とほとんど同じです。
コンセプト作りに関してはコピーの経験が役に立ちました。
正社員の仕事が決まった事で夜のサイゼリアのバイトは辞めました。キツかったがこのサイゼリアのバイト経験は後から効いてきます。
ブラック企業で働き始める
20人程の東京にある雑貨商社で働きはじめましたが、コピーライティングの仕事は継続していました。基本的に朝方の私です。朝4時に起床してコピーの仕事をやって、7時半くらいに会社に出社していました。
その雑貨商社の商品企画は面白かったです。会議でも売れる企画を作るために、オーソドックスなアイディア、斬新なアイディア、ふざけたアイディアを出していきます。
上述したように私は仕事の経験者という事もあり、入社直後から色んな事を経験させてもらえ、また試用期間も一般的には2ヶ月ですが、1ヶ月でOKをもらえました。
人がどんどん入れ替わる
試用期間が終わった直後くらいです。この会社は毎朝朝礼があるのですが、その朝礼で退社する人や入社する人が発表されます。
変だと思ったのは、その回転の速さ。毎月と言っていいほど退社する人がいて、それを補うように入社する人が来ます。
恐ろしく早く人の入れ替わりがあるな。。
変だなと思いながら、仕事に慣れていくうちにだんだんと忙しくなります。7時半くらいに出社し、帰るのは22時や23時ごろ。
18時で一旦 終業なのですが、会社ではここからだという雰囲気で仕事が継続されます。これが毎日続きます。
だんだんとブラックな理由が分かってくる
基本的に私は仕事好きですので、仕事時間が長いのは別に問題ありません。しかし、だんだんとあの退職者の多さの理由がわかってきます。
社長からの直接指導。私は直属の上司から守られていました。私の上司は本当に仕事ができる人で、私の事も気にかけてくれる本当にいい人でした。
しかし、他の部署では役職者にそこまでの配慮がなかったか、ヒラ社員にまで社長からの指導がバンバン飛びます。20人くらいの会社ですので、当たり前といえば当たり前でしょうが。
あの社長は強烈やった。。仕事以外ではいい人なんやけど。
しかし、あまりにも退職者が多いので、総務部が社長に直訴するためにデータを調べたところ、過去の2年で約40人が入れ替わっていました。約20人の組織なのに。
そして私にも直接指導が来るようになります。内容は割愛しますが、退職者が多い理由は分かります。社長は仕事以外ではとても良い人なのですが、仕事となると強烈でした。
だから社長としてやってられるんですが。
結局コピーの仕事で借金を完済してしまう
ボーナス目当てで入った会社ですが、結局はコピーの仕事で稼ぐ事が出来たので、借金を完済する事が出来ました。
平日の早朝と土日とでコピーの仕事をなんとかこなしましたが、仕事を継続的に得る事が出来たのは、クライアント様たちや起業家仲間たちのおかげです。本当に感謝をしております。
バンコクで働く機会を得る
商社で商品企画だけでなく、輸入も担当していましたので物流業者(フォワーダー)との商談も沢山ありました。
ある日、いつものように残業しているところに、取引をしていたフォワーダーの営業担当者がいきなり来て、「タイのバンコクで仕事をする人を探しているんですが、誰か良い人いませんか?」と言われました。
ブラックな企業で働き、精神的に疲れていた私です。思わず言ってしまいました。
私が行きます!
夢だった海外移住しての仕事をゲット
その会社は物流業者として一部上場している会社。当時32歳だった私。23歳からオーストラリアに留学し、25歳で東京の商社に勤め、28歳で独立し、失敗。
そしてスキルを身につけて借金も完済する事ができた。元々が海外思考だったので、良い機会だと思いました。
その雑貨商社に退職願いを出したのが11月上旬。受理されるのが12月上旬で退職は12月下旬。
もちろん年末のボーナスは出ませんでした。
そして2014年2月にタイのバンコクに飛び立ちました。
タイで現地採用編(33歳〜35歳)
私がタイに来て会社設立まで、異国の地でもガムシャラに働き 現在に至った話をさせて頂きたいと思います。
いよいよバンコクの生活が始まる
2014年2月に私は東京からタイのバンコクに生活拠点を変えました。バンコクへの移動日 当日、大雪の影響で飛行機が飛ぶか飛ばないか微妙で2時間フライトが遅れるというハプニングにも出くわしましたが、無事にタイに到着しました。
タイは私が独立して儲かっていた時期に1回だけ友達と旅行に来たことがあるというくらいでした。ゴーゴーバーに初めて行って、何だここは・・と衝撃をうけたのがアメージング・タイランドの印象です。
食べ物や生活、タイ人の性格など あまり良く分からない状態で移住を決めましたが、何も不安はありませんでした。
タイでの仕事について
私のタイでのミッションは、フォワーダー(国際物流業者)としてタイにある日系企業の貨物輸送の仕事を取るという新規開拓営業でした。
契約はタイの会社の現地採用として1年契約の毎年更新。自動車、ドライバーつき、携帯電話支給、家賃補助とコミッションはなし。
ドン底とブラック企業を経験した私にとっては超好条件でした。
ドライバーつき!?マジで!?
なんて贅沢なと最初は思いっきり浮かれたものです。とはいえ1年契約です。結果が伴わないと首を斬られるんだろうなと思い、最初から必死に働きました。
タイのローカル企業(雇ってくれた日本の上場企業のパートナー)の事務所に場所を借り、英語が話せるアシスタントも1人もらって、お客とリストがゼロからの営業開始です。
フォワーダーの仕事とは?
フォワーダーとしての経験は派遣として働いていた時に、外資のフォワーダーで1年半ちょっと働いていたので基本的な事は理解していました。
フォワーダーというのは自社の船や飛行機を持たず、船会社や航空会社にスペースをかりて、お客の貨物を運ぶというもの。
HISとかの航空券が格安なのも、HISがJALとかANAという航空会社にスペースをかりて、チケットを大量に一般顧客に売るから安いという感じです。
今までやってきた他人のふんどしで相撲を取る商社の活動とほとんど変わらない。
マーケティングのプロとして結果を出す
タイでの営業活動は最初から上手くいきました。お客を獲得してサービスを提供している時に何かしらの問題は大なり小なりありましたが、新規営業をゼロから開始して次々とお客を取れていったのです。
一度失敗して借金生活をしたといえど、副業で上手くいき、独立して色んな商品を気合いでプロモーションしたり、コピーライティングのスキルを使って次々とクライアントを獲得してきた私です。
マーケティングのプロなので!!
会社のリソース(人・金・物・情報)をふんだんに使い、最適なマーケットを選び、マーケットに合った最適なサービスを提供するという、マーケティングの基本を実施する事でお客は簡単に取れていきました。
会社のプレゼン資料もコピーライティングのスキルを使い、お客に魅力的に伝わるようにも工夫をしました。
タイの仕事現場の対応にちょっと苦戦
私が働いていた場所はタイのローカル企業です。日本人は私が1人だけで、あと全員タイ人です。30人くらいの会社ですが英語が話せるのは社長を含め5人くらい。
ドライバーにいたっては全くと言っていいほど英語がわかりません。ドライバーとの会話が最初の難関でした。これくらいわかるだろうという基本英単語もわかりません。
必然的にタイ語を勉強する事になります。ドライバーだけでなく、アシスタントもやはりタイ人。
タイ人ならではのサバーイサバーイ(お気楽)が大前提にあります。しかし私のお客は基本的に日系企業なので日本レベルのサービスを求められます。
タイ人スタッフ達にこの日本レベルを理解させる事が大変でしたね。
でも、これらは全部 タイで働く日本人あるあるです。愚痴ったところでしょうがないので、スタッフ達としっかりとコミュニケーションを取るように心がけました。
私の社員旅行、社員飲み会の参加率は100%です。お酒を交わしながら、タイ人スタッフ達の懐にかなり入っていったと思っています。
タイでの生活について
タイに来て仕事ばかりしているわけではありません。休日はしっかりと休みますし、やっと人生をエンジョイし始めました。
思えば、独立をしてからずーっと働きづめでした。借金返済の為に昼間働きながら、夜はバイトとかもしてるし。
心が穏やかになったのはタイに来てからです。
またコピーライティングの仕事も朝や土日にやっていたので、休みという休みはほとんど取っていませんでした。
借金からも解放され、仕事も上手く行き始めて だんだんと心の余裕が生まれてきます。
普段から食べているのはタイ料理
とは言え、もともとが貧乏性な性格。普段から食べているのは安いタイ料理です。一食 120円くらい。朝食は屋台でフルーツを切ってくれるオバちゃんがいるので、毎朝フルーツ。
昼は会社の近くでタイ料理を食べて、夜は晩酌をせずにソーダ水を飲んで、野菜中心のおかずとスープだけを食べます。
お陰様でこの記事を書いている現在は身長179cm, 体重 68kgと健康的な体型です。
旅行に行くようになったり
休日はゴルフやウェイクボードに行ったり、カフェで読書したり、ドライブ(自分で運転)に行ったりします。旅行にも行くようになりました。
タイ国内では頻繁にパタヤやファフィンのビーチに行きますし、海外ではラオスやフィリピンのマニラにも行きました。
ゴルフもエンジョイしたり
毎月 誰か友人が1人は日本から来ます。大体 起業家仲間が多いです。一緒に飲んで遊んで、仕事をするときは仕事をしています。
原理原則に出会う
ある日、日本でお世話になっていた方がタイに来てくれた時 一緒に食事をさせてもらっていました。
他のクライアントさん達も連れてこられるので、タイを頻繁にアテンドさせて頂いているのですが、その中で「原理原則」というお客の勉強について教えてもらいました。
マーケティング思考から大きく変わる
それは、H&M, ZARA, ユニクロ、セブンイレブン、ニトリ、吉野家、しまむら などの大手チェーンストアが展開している方法。
大手企業が大手になった理由とも言える、お客を主体とした商品の開発方法であったり、サービスの提供方法を学ぶ事が出来るものです。
何事も無駄はない。ありがとうサイゼリア。
驚いたのがサイゼリアのオペレーションがこの原理原則 通りというものでした。あの派遣で働きながら夜にバイトとしてお世話になったサイゼリア。
サイゼリアの現場で貴重な体験をしました。サイゼ大好き!
バイト中もそのオペレーションシステムは凄いと思っていましたが、講義を受けて 内容の理解が深まると、そのサイゼリアの業態がいかに優れていたかがよく分かりました。
そして原理原則にはまり込み、DVDの講座を何度も見直し、すぐに自分の活動にも取り入れました。
一気に売り上げを伸ばす
この原理原則に出会ったのはタイに来て半年くらいした時です。当初からマーケティングを実施し、お客を次々と獲得していっていた私ですが、この原理原則を活動に取り入れることでお客の獲得が加速しました。
それまでは毎月の新規顧客獲得件数が 1件、2件とかでしたが、一気に倍の4件とか獲得出来て、更にお客のリピート率も非常に高くなったのです。
ガンガン新規とリピート案件を取り続けました。
継続的なリピートに関してはタイ人スタッフ達の協力が必要なので、タイ人の人材育成にも原理原則を積極的に活用しました。
念願のボーナスをゲットする
初年度の売り上げは約4,000万円。私がタイにきて約3ヶ月で自分の給料分を稼ぎ、半年が経つ頃には自分、アシスタント、ドライバー、車、接待交際費、などの全ての経費を稼ぎました。
半年で黒字化に移り、あとはお客を獲得すればするほど利益となります。
初年度はボーナスなしという事でしたが、利益をしっかりと出しましたので 念願?だった ボーナスを得る事が出来ました。
ついに派遣の時から欲しかったボーナスをゲット!
ヘッドハンティングされまくる
現地採用の社員にもかかわらず、次々と仕事を獲得していった私です。基本的に現地採用というのは駐在員と比較してコストが安い。大体3分の1くらい。
駐在員は家賃補助や駐在手当や、家族手当とかなんやかんやついて、20代の若手とかでも1年間に1,000万円以上のコストがかかります。
コストが安い現地採用が結果を出すと・・
私の場合、コストの安い現地採用が次々と仕事を獲得して、しっかりとサービスをするもんだから お客さんや同業者から「うちで働きませんか?」というオファーを沢山もらいました。
4社からお声がかかりました。
更に最初に日本で私に声をかけてくれた一部上場企業も「うちの駐在員として働いてくれませんか?」とオファーを頂きました。
多くの人に結果を認めて頂いたようで非常に嬉しかったのですが、全てお断りをさせて頂きました。理由としては、この時に独立願望がまた出てきてしまったからです。。
まだまだ大人しくしていられない。。
我がままの極みだと思うけど。。
ヘッドハンティングを受けてしまうと、収入は上がるかもしれませんが、束縛もされるし日本の本社とかからの要請にNOと言いづらくなります。
私としては、ほぼ100%自分のコントロール下で全ての仕事がしたかったんです。自分勝手でごめんなさい。でもやりたいんです。
個人年商が1億円を突破する
タイにきて1年半が経ったくらい、最初は1人だったアシスタントが3人に増えました。3人くらい いないと回らないくらい仕事をとっていましたので。
新規開拓の仕事は順調に進んでいきます。1件数万円の小口の仕事から1件 2,000万円を超える大口の仕事まで全て責任を持ってやりきりました。
2年目の私の個人成績は約1億円の売り上げを超えていました。利益も十分に残しています。
タイに来てお客がゼロから、2年でここまであげる事が出来たのは「周りのサポート」と、今まで積み重ねてきた「学び」のお陰と、「運」だったと思います。
色々ありましたが多くの人の支えのおかげです。
新会社を立ち上げる
タイのローカル企業に机を置いて活動しており、そのローカル企業の社長には非常に可愛がってもらいました。
その社長は中華系タイ人で1代で会社を興して、現在では7社のグループ企業を作っています。いうなればムチャクチャお金持ちです。
グループ会社の社長たちが集まる食事会にも何度も参加させてもらい、また仕入先の大手船会社の副社長が参加するような会食にも同席をさせてもらいました。
一緒に日本に出張することもありました。
むちゃくちゃ可愛がってもらいました。
2年でグループでもトップの稼ぎ頭になった私に、新会社 経営の機会をくれました。「好きにやっていい」。今までの結果を見てくれていたお陰か、全面の信頼を得て 再度 独立する事になりました。
2016年7月 会社の登記も完了し、また一からのスタートです。会社設立時点で35歳。25歳にオーストラリアから帰国し、社会人として歩み始めて10年です。
色々ありすぎた10年。。
振り返ってみると、この10年間 自分の無知とわがままのせいで色んな事がありました。本当に多くの人たちに迷惑もかけましたし、また多くの人たちに支えても頂きました。
今後 成長していくであろうアジア、東南アジアのマーケットで、これまでと変わらずガムシャラに前に進んでいきたいと思います。
タイで独立起業編(36歳〜39歳)
この独立起業編を書いている現在の僕は39歳で、あと数ヶ月すると40歳になる。
30代の最後を区切りにこれまで更新出来ていなかった、タイで自分で会社を起こしてからの奮闘記をお話ししていきたいと思う。
時系列ではなくテーマ別に話をまとめています。
物流業と商社業で独立をする
弊社のグループ会社は8社あり全部が国際物流をしている。その中で商社業が全くないので、当時 僕のボスに「商社やらない?」と提案したのがタイ起業の始まりだった。
その時 ボスのお言葉。
商社業だけじゃなく、フォワーダーもやろう
ということで2つの事業をメインにスタートした。
パートナーと最初から対立
会社設立で株主はボス・僕・Mr.Kengの3人がメインだ。
ここで少し僕の相方Kengさんについて少し紹介をしたい。彼は僕の1つ年下で複数の船会社に在籍していて、幸か不幸か僕と独立することになった僕のボスの親戚だ。
彼がボスの親戚だというのを知るのに3年くらいかかった。
彼の性格はいたって保守的。石橋を叩いて渡らないくらい保守的な性格で、ボロボロの吊り橋でも渡ろうとしてしまう僕とは全く反対の性格。
こんな2人が一緒に起業をするとどうなるだろうか?ガチの喧嘩が絶えない。振り返ってみれば毎週喧嘩をしていた気がする。
喧嘩の内容は会社の方針、採用、コストの使い方、顧客の獲得方法、顧客の維持のために必要なこと、などなど。
会社経営において一つ一つのことで話し合いをする時に確実に意見が分かれて、お互い興奮して喧嘩になる。声を荒げて議論する。さすがに暴力はなかったけど。
よく関係が続いたなと不思議に思う。
当時は商社業と物流業で会社を分けようと真剣に考えていた。
相方との関係が良好になる
しかし相方との関係は現在ではうまく続いている。
起業2年目くらいのタイミングだったと思う。急にお互いを尊重するようになった。恐らくだがお互いが相手の得意を認めて必要な存在だと気づいたからだと思う。
僕の場合は商社業で会社を分けようとした時に、優秀なタイ人を探さないといけないと考えた。
しかし優秀な人材を見つけるのは簡単ではないと以下にも説明しているが、当時の人材採用・育成で十分に理解していた。
彼の性格は僕とは真逆だが、仕事に関しては優秀なのだ。
僕は日本人顧客をとりに行く、サービスレベルを高い水準に保つという役割がある。
そして彼は船会社との人脈で安い運賃を獲得する、スペースを取る、スタッフを管理するということが出来ている。
お互いがお互いの強みを理解して歩み寄れたんだと思う。
他には初年度から結構な黒字をあげることが出来たからだろう。初年度の経常利益は約2,400万円以上あった。
自分たちでもビックリだった。
痛感するタイスタッフの採用・育成の難しさ
独立して最初の課題は相方だけではなかった。人材の採用と育成だった。
タイに来てすぐの時もアシスタントの育成で結構大変だったんだけど、経営者となってからは採用の難しさが身に染みてわかった。
まず商社業
これはゼロから1を作らなければいけないんだけれども、僕の仕事はゼロイチの企画を作ること。そして仕入れや営業も基本的には僕の仕事になる。しかし物流も一緒にやっているのでタイを離れられない。
すると販売は基本的にタイ国内となる。
詳しくは後述するが、僕は自分でタイの市場でタイ人に販売することが出来なかったので良い営業マンを雇う必要があった。
そして物流業
物流では安全に納期通りに運ぶことが出来れば本質的に重要なのはコストだ。お客さんに提案するのも他社より安い運賃を提案できれば案件獲得に繋がりやすい。
安く仕入れることはボスや相方のおかげで出来る。
そして高く売らないので、人件費は安くするのが基本となる。
なので個人的には物流業でコストがバカ高い日本人駐在員が沢山いるのは 相当デカイ顧客を持っていたり、新規獲得が強かったりしていないと割りに合わない。
既存の仕事をまわすだけならコストの安い現地採用で十分だと思う。
タイローカル会社のコスト管理
そしてロールモデル的にボスの会社のスタッフもコストが安い。25歳くらいのオペレーションスタッフの給料は2万バーツを少し切るくらいだ。新卒だと16,000バーツくらい。
タイの日系企業ではもう少し高い給料を出しているのを知っているが、ローカル企業の弊社のスタンダードはやはりローカルになる。
人件費が高いとボスから
何でそんなに高いの?
と強烈なツッコミが入る。また仕事量に合わない人材の採用も非常に厳しい。
それくらいコスト意識が高い会社でその陣頭指揮をとってやっているのがMr.コスト管理の相方だった。
僕はコスト意識が日本人よりで緩いので、これはよく喧嘩になった。
難しい採用条件
給料を高くすれば応募をしてくれる人も増えるので、良い人材とまではいかないがマシな人材獲得に繋がりやすい。しかしコスト意識が高い弊社では、高い給料なんて提示出来ない。
営業マンに関して言えばコミッション(歩合)があるからそれで稼ぎなさいという感じ。
うちのコミッションの仕組みではベースの給料が低いほどコミッションが得やすくなっている。
だから仕事が出来る営業マンはわざとベースサラリーを低くして、コミッションでガンガン稼ぐというのがローカルの物流会社の営業だ。
そんな仕事が出来るやつは殆どいない
しかし、問題がある。
そんな自分でガンガン稼げるやつは殆どいないし、いても優秀なのですぐに独立する。本当に宝探し状態なのだ。
なので当時の弊社では僕が仕事をとにかく沢山とってきて営業マンにパスをしまくって、彼らのコミッション獲得に貢献していた。
当時も今も殆ど変わりないんだけど、僕が新規顧客を取りに行かないと新規は取れない感じだった。
仁義なきタイスタッフの退職
コストが低く雇える人材の特徴は年齢だ。若い年齢の人ほど安く雇える。
でも若い人たちはタイでもニュージェネレーションと言われ、仁義のない自由奔放な人間だと揶揄される傾向がある。
いつの時代でも近頃の若者はというのはある。
僕もおじさんになったせいか、そのように思うことも少なくない。更に言えばタイという異国の地なので文化の違い、考え方の違いもあり彼らの辞め方はショックだった。
・突然来なくなる
・LINEで辞めると送ってくる
・友達伝えに辞めると言ってくる
・僕の客を持っていく
大体 彼らの辞める理由No.1が「母親の面倒をみなければいけない」というもの。ホンマか知らんけど。
起業初年度は慣れていないので本当にショックだった。本当に会社への迷惑なども関係なく好きな時に辞める。信じられなかった。
僕の客を持っていった奴にはブチ切れして、根回しをしてお客を取り返したが。
この時のボスのアドバイス。
お前のことに興味のないやつに、興味を持つ必要はない。なぜショックなんだ?
おっしゃる通りだと思います。
若い奴ほどこういうことをするので(僕の経験上の話ね)、ニュージェネレーションは絶対に採用しないと決めている。
うまくいかない商社業
さて初年度から会社は黒字とお伝えしたが、それは物流業の話。商社業はずっと赤字で失敗続きだった。初年度は商材探しをして2年目から取引先との関係もあり油と飼料を扱うことに決めた。
ページ下部の関連記事にも書いているが、油をインドネシアの業者から輸入しようとしたら詐欺にもあった。
少額だから良かったものの海外でゼロイチで何かを始めるのは簡単ではない。
飼料にガチで力を入れる
何か良い商材はないか?と展示会に行った時にベルギーの飼料メーカーと出会った。話を聞き、リサーチをするとニッチでパフォーマンスもかなり上がる珍しい商材だった。
あとはベルギーということでビールを飲みにいきたいという強い欲求(下心)があったのがモチベーションになり、活動をしまくった。
結論から言うと、これは ずーっと赤字だった。
・メイン商材の輸入許可が関係省庁から下りない
・ファーマーに直接売りにいくも相手にされない
・大手の価格がとにかく安い
主にこれが原因だった。
役人の意味不明な見解
メインで扱おうとしていた商材は顧客リサーチやコスト試算も含めて、本当にいけると思っていたんだけど輸入許可がおりなかった。
砂糖きびを原料に使い、味の素と同じバクテリアを使って発酵して、その余り物として出てくるものでとにかくプロテイン率が高い。そして安い。
そしたら関係省庁から言われたのが、このバクテリアはダメだとのこと。味の素も危険だとのこと。
味の素そこら辺で売ってるがな。全く同じ原料を使ってるがな。。
意味不明だった。
何度もこの省庁に出向いて上司にも話をしたが、この許可申請だけで1年かかってしまい諦めることにした。恐らく何かあるんだろうなと思っている。
ファーマーに相手にされない
同じベルギーのサプライヤーから別の商材を提案され、それを分かりやすく、訴求しやすい企画を作り、タイのファーマーに直接売り込みに行った。
この時に扱ったのがレイヤー(卵を生む鶏)の排卵率を上げて、産まれた時に殻が割れることのロス率を下げるものだった。
タイとヨーロッパでは飼料のビタミンレベルに対する概念が違う。
タイ:NRCという家畜が最低限生きられる量のビタミンレベル。
ヨーロッパ:OVNという家畜のパフォーマンスを最大限にする為のビタミンレベル。
これはヨーロッパでの飼料の概念はこのようなものが多いらしく、コストは高くなるけれども家畜にとって優しいし、より高い結果が出てより収益につながるものである。
伝わらない飼料の効果
でもタイの農家は結果が良くなろうが、目の前の餌のコストが上がることに強烈な拒否反応を示した。
数字を聞いてエクセルで計算して「これくらい収益が上がりますよ!」と伝えても、「お前、胡散臭い」と一掃されてしまう事が多かった。
一度だけ人脈を通じて取引につなげたこともあったが、正しい飼料のブレンドをしてもらえず予定していた結果が出なかった。
タイのファーマーはやはり人脈社会に生きていてキーマンを抑える必要があったが、中途半端に活動していた僕にはそれが出来なかった。
飼料でウェブマーケティングを使う
こちらから売り込めないのであれば、相手から来てもらうしかない。
予算は限られているからコンテンツマーケティングや動画を使う。そして飼料の業界紙に広告を打つ。LINE@も始めて問い合わせがあったファーマーへアプローチをし続けて行った。
ウェブマーケティングはそこそこ注目を集めることが出来た。しかし問題は在庫だった。既にそこそこの投資をしているしうちのMr.コスト管理の相方は在庫を持つことを許してくれない。
ひたすらマーケティングを続けて1回のオーダーで十分な量の注文をしてくれるファーマーを探していた。
しかし2020年4月をもって飼料事業を止めることに決めた。飼料事業を続けることで本業の物流業に影響しかねないと判断した。
無念だ。。
飼料事業の失敗を振り返る
失敗してから思ったのだが、自分でタイのマーケットには営業が出来ないので仕事が出来る営業マンは必要だと分かった。予算が限られていて営業マンを雇えなかったのも問題だった。
商品や戦略自体はそこまで悪くなかったと思う。
でも予算と行動が中途半端だったと2020年4月に振り返ってみて分かった。
飼料事業をしながらも僕は物流の新規営業をしていて顧客獲得をしまくっていたし、僕の時間を100% 飼料事業に使うことも出来ていなかった。
これも後述するが自分が何に一番注力をすれば事業として最大の収益を得ることが出来るのか。創業期は絶対にこれが必要だと思う。
タイ仕入れツアーを始める
起業して2年目くらい。お世話になっていた人がタイに頻繁にきて仕入れのサポートをしていたので、ノリでRIMNAMというタイ仕入れツアーのサイトを作った。
これは当時付き合っていた彼女(今の嫁)がツアーガイドのライセンスを持っていたことも大きい。
当時の彼女(今の嫁)の安定収入にも繋がるだろうと思って、事業を企画して始めたところ これはソコソコうまくいったと思う。
古くからこの事業をしている会社や新規で始める個人事業主たちを抑えて「タイ 仕入れ」ではNo.1になることが出来た。
我ながらのウェブマーケティング力だ。
RIMNAMの事業のメインは土日だった。チャトゥチャックのウィークエンドマーケットを仕入れコースに行くので、平日よりも土日にお客さんからの問い合わせが集まる。
そしてここで問題発生。問い合わせが増えすぎて、本業に影響するくらい忙しくなってしまったのだ。
値上げをしてもお客が来る
コンテンツマーケティングが当たり、他のライバルのウェブサイトよりも分かりやすく、キレイに、更にうちの嫁(美人)も全面的にアピールをして表現していた。
更にお客様の声も毎回 頂いて写真付きで掲載するのでRIMNAMのサービスへの信用に繋がった。
そこで対策をすべく段階的に値上げをした。最初はTHB5,000/グループだったが、最終的には僕が参加するオプションではTHB 12,500/人としていた。
それでもお客さんからの依頼は多くて、オンライン秘書を使って対応をした。
ノリで始めた事業がこうなるとは。。
クロコダイルの事業を始める
タイの仕入れで利益が取りやすい商品がある。それがクロコダイルの革製品だ。
最初は僕もクロコダイルのことを何も知らなかったが調べまくって、ワシントン条約の規制もクリアーしてサイトで情報を発信した。
このワシントン条約(CITES)の規制が参入障壁を作ってくれて、ライバルたちとの差別化になったのは間違いない。
イサーンのクロコダイル
ある日 タイの東北地域のイサーンでクロコダイルを飼い、更に縫製工場を経営しているという女性から連絡があり、話を聞いてみて非常に面白かったので2日後にはその工場を訪問していた。
タイの田舎の地域貢献にもなる事業で、クロコダイルの革という商材もインパクトがあり クロコダイル商品単体で卸販売をすることにした。
タイ仕入れツアーのお客さんからもクロコの販売に繋がり定期的な注文になった。
怪しい人に近づかれる
タイ仕入れツアーをしていると色んな参加者さんが来てくれる。殆どの参加者さんが本当にいい人だった。高めのツアー費用なので この金額を支払える人たちなので本当に客層が良かったと思う。
しかしその中で自分でも仕入れツアーをしているという人が参加してきて、僕もRIMNAMを手放したかったから(本業が忙しかったので)色々と話をすすめていた。
そしてクロコダイル製品の大口の仕入れをしてくれた。
なんか雰囲気が怪しい。。でも周りの人は普通だし。。どうなんだろ?
ある日、その方から発注があった高級路線のクロコ製品の一部にクレームが入り「その分は返金 or 修理対応をする」と言ったら、まさかの発注分の全部を返金しろとなった。
流石にそれは無理と話し合いをしたら「返金対応をしてくれないと、現在発注している(製造中の)クロコ財布100個分の現金がない」と言われる。
この方とは縁を切りたかったので、では100個分のオーダーはキャンセルを受けて自分で100個のクロコ財布の販売をする羽目になってしまった。
2020年の11月に全部を売り切った。協力者様には感謝です。
RIMNAMのサイト・サービスを売却する
ワニで痛い目を見ることになり、このタイ仕入れツアーの仕事はお客さんからの依頼が多かったので一応続けていた。
でも本業に支障がかなり出るようになっていたし、一度 ボスにこの事業を説明して会社でやらないか?と提案した。
全然儲かってないよね。Too Small. やる意味ある?
そうなのだ。個人でやる分にではお小遣いとしてそこそこ多く稼げる。
でも本業の物流業は年間で2,000万円以上の経常利益を出せるくらいの規模なので、これと比べると非常に小さい収益にしかならない。
さらに言えば僕しか出来ないことも多かったので、自分が一番利益を生み出せるところに集中すべきだと至極当然な話をされた。さすがボスだ。
RIMNAMの事業に興味を持ってくれる会社があったので売却をすることにした。
2020年1月に売却した。
Twitterを始める
起業して2年目が終わるころ。社員旅行中でカオヤイというマウンテンリゾートで「ブランド人になれ」と言う本を読んでいた時に、Twitterでフォロワー1,000人いないやつはダメ的なことが書いてあったので挑戦してみた。
Twitterは避けていた。ブログとは違いストック型でコンテンツが溜まっていかない。常に呟き続けなければいけない。
更にFacebookとは違い、匿名で拡散されやすい仕組みでもあるので炎上することもある。
とはいえメディア歴もソコソコ長いので挑戦してみることにした。
やってみると意外と面白いもんだな。
タイの日本人ツイッタラー
「タイ 起業」をキーワードに僕なりに思う役に立つ情報発信を続けた。1日10ツイートを最低ラインとして予約投稿ツールを使って発信しまくる。
あとインフルーエンサーに絡んだ方がいいよと書いてあったけど、フォロワーを増やすために絡むのは嫌だったので広告を使った。
1年半くらいでフォロワーが3,000人くらいまで伸びた。
ツイッター飲み会を開いたり、ツイッター経由で起業したいとか、海外で仕事をしたいという悶々とした悩める若者にアドバイスをするおじさんとして活動もした。
インタビューも5回くらい受けました。
情報発信のスタンスが決まる
ツイッターでは「現在の駐在システムは変わらなければいけない」と18,000文字くらい使って書いたブログ記事がプチ炎上したり、匿名の変な人から変な絡まれ方をすることもある。
自分が発信している表現が鋭ければ鋭いほど批判を受ける機会が上がる。
敵を作る必要はないが発信する表現とスタンスは気を付けるようになった。
気にしすぎてフワフワした内容になっても嫌だし、主張すべきだと思うことは炎上しても、批判されても主張するスタンスを取るようになった。
非常にいい経験で、発信の軸も決まった感じ。
そして2020年はテーマを変更して「タイの物流業者の社長」という肩書きで発信をするようになった。後述するが起業して4年目で本業の国際物流に専念をすることにしたからだ。
ベトナム進出を検討する
起業して3年。会社の経営は物流業がお陰様で上手くいっている。この時点で僕のタイ在住は6年になった。軽くタイでの生活が飽きてきていた。
そこでボスに新しい提案。
ベトナムいかない?
パナソニック Thailandが、タイの工場を閉めてベトナムに移転したというのがきっかけだ。
タイにある日系製造業は飽和してきている。会計事務所の友人や不動産会社の友人にも話を聞くと、進出よりも明らかに撤退の方が多い。
日系企業はどこに行くのか?「タイプラスワン」というキーワードが何年も前から出ていたが、ミャンマーは新聞で取り上げられているほど盛り上がってはいないと思う。
大手企業はミャンマーに行くだろうが、僕らみたいな2番3番煎じの中小企業が狙うマーケットではない。だからベトナムしかない。
過去5年の経済成長を見たり、日系企業の進出会社数や日本からの投資金額を見ても これから伸びていくに違いない!(多分)
コロナでベトナム進出が頓挫になる
コロナの影響で他国に行く時や、タイに戻って来る時に14日間のホテルでの強制待機期間がある。
ベトナムを進出するにあたり、ベトナムの代理店と交渉をする必要があるんだけれども僕のボスはオンラインでは決められないとコロナが落ち着くまでの延期を決めた。
コロナの影響次第では僕がベトナムに行っても新規営業が出来ないかもしれない。そうなったら無理して行くのはリスクである。
せっかく新しい国で仕事が出来ると興奮していたんだけれども、失敗のリスクが高い時に行く必要はない。コロナが落ち着いてからでもいいから、アンテナは常に立てていくつもりだ。
2020年 – コロナ禍でタイで働く社長
さて話を今年にまとめよう。
コロナの説明はいちいちしないが 2020年4月から飼料事業を撤退し、国際物流にのみ専念するようになった。2016年に起業をしてからやっと得意としているフォワーダーに専念し始めたのだ。
なぜここまでフォワダーに専業しなかったのか?フォワダーという仕事をたいして好きになれなかったからだ。それに関する記事(ページ下部)は詳しく書いている。
簡単に説明すると、メーカー・商社系の駐在員に見下されたり、同業の駐在員はこの職業を底辺とまでいう。底辺とは思わないがダラダラ仕事してそうな人間に見下されるのが嫌だった。
YouTuberになる
これも別のブログ記事 (ページ下部) にまとめているんだけど、国際物流専門のLogistics YouTuberとして活動をし始めた。
2020年4月から10月くらいまではコツコツと動画を更新して、チャンネル登録者数は3,000人くらいだった。
それがある動画がバズって海外の物流関係者からのチャンネル登録が増えて年末の現在には27,000人以上のチャンネル登録者となった。
更にこれまでは動画に広告を貼っていなかったんだけど、12月1日から広告を貼るようになってYouTubeからの広告収入を得るようになる。
普通に生活できるくらいの収入がある。YouTuberって夢があるな。。
タイの物流はイーノさん
YouTubeが日本だけでなく世界でもバズったおかげで、僕のことを知ってくれる人が増えた。しかも国際物流をテーマにした専門チャンネルなので、仕事に関する問い合わせが一気に増えるようになる。
国際物流の仕事は2国間で行われる。
だから他の国の物流関係者から「タイの物流はイーノさん」に依頼をしようと思ってもらえれば貨物を集めることができて仕事が増える仕組みなのだ。
また僕が発信している内容は物流の教育コンテンツだ。
動画だけでなく、物流の専門ブログ(Forwarder大学)も2020年2月から始めていたので、ブログ経由でも動画へのアクセスを流し込んでいる。
動画を中心に、ブログ、Twitter、LinkedIn、Facebook広告と導線をつなぎブランドを構築している。
来年はこのブランドを活かして新しい企画をする予定だ。
コンテナ不足が発生する
2020年の9月ごろからコンテナ不足が業界内で囁かれ始めた。
海上運賃の高騰にも繋がり、船のスペースが取れない、更に港の混雑に繋がり、工場・商社・物流に携わっている人ならこの問題はかなり深刻なのだ。
コンテナ不足を解説する動画がバズる
それに関する解説動画を作ったところ、分かりやすい!と世界中から連絡が来るようになった。動画のバズのきっかけはFacebook広告だった。
この動画の日本語版がかなりシェアされてヒットする内容だと分かったので、英語版に期待をした。
英語版の動画への導入経路をすぐに増やすにはFacebookのターゲット広告がいいだろうと思い、実際に広告出稿をしたら1日でFacebookでシェアされ、What’s appでシェアされ、LINEでシェアされまくった。
狙った戦略が当たった時は気持ちがいい。
コンテナ不足の影響で強烈に忙しくなる
話を国際物流の実務に戻そう。「コンテナ不足の動画が伸びてウェーイww」となるほど僕はYouTubeを本業にしていない。
あくまで本業は国際物流で、コンテナ不足が起こったら自分のお客さんの為にコンテナを確保しなければいけない。
ここでどんなことが起こっているか箇条書きで説明しよう。
・コンテナを何とか確保する
・船会社からいきなりキャンセルを喰らう
・他の船会社のコンテナを探す
・新規の荷主がコンテナを求めて問い合わせをしてくる
・なんとかコンテナを確保する
・新規に主が既存のフォワーダー経由でコンテナ確保 => キャンセル
・本船が遅延しまくる *最大3週間の遅延
・荷主に強烈なプレッシャーをかけられる
・船ではなくトラックを提案する
・高いといってトラックは断られる
・でも結局トラックで輸送手配をする
・海上運賃が3−5倍くらいに高騰する
・荷主への値上げ説明に翻弄する
これは僕だけの仕事ではなく、弊社の業務スタッフにも大きな影響を与えている。
いつも定時で帰宅するスタッフたちが、21時以降も仕事をすることになった。
こんなに忙しい年末は初めてや。。白髪がマジで増えた。
人との交流が広がる
仕事以外のことも書いておきたい。
これまでは殆ど交流会などに参加しなかった。でもある人たちと出会い、彼らが人を活かす姿を目の当たりにして、更に自分も活かしてもらえた。
僕は昔 人脈を否定していた。
これも関連記事(ページ下部)に記載しているけれども、人からの紹介なんて紹介してくれるかどうかも分からないから、当てにならないものだと思っていた。そんなの当てにしているやつは弱いやつだと思っていた。
でも、それは完全に僕の間違いで、紹介されないのは、紹介されるような人間ではなかったからだ。
しかし、事業を続けているとこんな僕でも紹介をし続けてくれる人が出てきた。
僕の仕事ぶりを気に入ってくれたのか、本当に性格の良い人なのか とにかく人を紹介してくれるのだ。また紹介してくれた人たちが本当に優しいのだ。本当に良い人たちで居心地もよくなってしまった。
牙がとれてきた。。
人と人を繋げるようになる
当時はとにかく1人で気合で仕事を取りにいってたから、本当に自分のことしか考えていなかった。
しかし上述したように自分を紹介してくれるような優しい人たちに触れると、自分もやってみようという気になる。
国際物流業という業種なのでいろんな製造業のお客さんがいる。業種が偏っていないのでお客さんが求めている人がいたら、紹介できるケースが何回かあった。
またお客さんでなくても、テーマを決めて自分より年下の人たちを集めて飲み会を開いてみたり、自分に得がなくてもその人達にとって何か良い出会いに繋がればいいなと思って行動することが出来るようになった。
少しまともな大人になれた気がする。
新しい目標が決まる
僕の友人にコーチングをしてくれる人がいて、毎年2回 時間をとって僕の目標設定にお手伝いをしてもらっている。
もうタイに来て7年になる。
最初の3年半は現地採用として親会社でフォワーダーの営業担当者として実績を積み上げていった。そしてその実績が評価されて次の3年半で上述しているような起業、会社経営をしてきた。
タイで起業してからも相変わらず無駄なチャレンジが多く、まっすぐゴールには向かっている感じはしない。
でも30代を最後にして自分が勝ちやすい場所がどこか分かり、自分を必要としてくれる人に何をしたら良いかも少し分かった。
また自分が何をしたら楽しいかも分かった。
僕は常に何か新しいことをして仕事で遊んでいる。気がのらなかった国際物流に専念しているけれど、そこからYouTuberになって結果を出し次の展開につなげている事がかなり楽しい。
そういう経緯でベトナム進出も非常に楽しみな行事の一つだ。
45歳でイタリアに住む
イタリアには一度も行ったことがない。でもイタリアに住みたい。なぜか?
なんとなくカッコいいから。
僕が25歳の時にオーストラリアから帰国して、どういう大人になっていたか?と考えた時に、海外でバシーンっと仕事を決めて、帰りの飛行機で「フー」っと一息ついている瞬間が死ぬほどかっこいいと思っている。
これは僕の価値観なので、僕だけが共感していれば良い。
イタリアのミラノならフランス、ドイツ、オランダ方面にも近くて、ヨーロッパの仕事につながるんじゃないか。
またタイ・ベトナム・日本というアジア地域で物流会社を経営していればイタリアの貨物にも物流をつなげられるんじゃないか。
意外といけるんじゃないか?そして45歳ならオッサンといえど、良い感じじゃないか?
まとめ:30代は本当に積み重ねてきた
2021年2月に40歳になる。もう自分が40歳になるのかと信じられないくらいだ。
最近ではタイで起業したこと、ツイッターのフォロワー数やYouTubeのチャンネル登録者数を見て、「すごいですね!」「成功してますね!」と勘違いされることが多くなった。
上述しているように僕は失敗ばかりして、性格もかなり歪んでいた。闇もある。何も凄くない。
自分が出来ること、楽しいこと、最近だとワクワクすること、その為に必要なことをコツコツと実行してきただけだ。
成功したというのであれば積み重ねてきたものが、たまたま人に触れる機会が増えて 評価をしてもらえる機会が増えたことだ。これまでの積み重ねがなければ何にもない。
・何を積み重ねるのか?
・何のために積み重ねるのか?
本当に行き当たりばったりに行動をし続けてきた。そこで得られた知識や経験、そして出会った人によって30代の後半ではこれまでと違う価値観を持って積み重ねが出来るようになってきたと思う。
本当に出来た・優秀な人間であれば大切なことを狙ってキャリア・人脈などを積み上げていくんだろうけど、失敗しないと理解できない僕としては行き当たりばったりで怪我をしながら、迷走しながら40代の手前までたどり着いてしまった。
次は45歳でイタリアだ。
その過程で色んな人に出会うと思うけれども、僕に出来ることがありましたら協力させて頂きますのでお気軽にご連絡ください。
追伸
長文の自己紹介をここまで読んで頂きましてありがとうございました。ご紹介したとおり、私は沢山の失敗を重ね、多くの事を学ぶ事が出来ました。
もし今 あなたがビジネスなどでちょっとした困難をむかえているというのであれば、ご相談ください。こんな私でもあなたのお役に立てるかもしれません。
「人生とは本来、極めて相互依存的なものである。相互依存的は、自立よりはるかに成熟した高度な概念である」 by スティーブン・コビー博士
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