飯野慎哉
HPS Trade Co.,Ltd – CEO
1981年生まれ / 出身地:京都 / バンコク在住

大学卒業後オーストラリアにマーケティングを学びに留学。帰国後 東京の商社に勤め海外営業に没頭する。3年後、商社での貿易経験をある程度積み、副業の輸入通販業が好調であったため独立しました。


独立後、並行輸入だけではなく海外商品の日本総代理店ビジネスを展開。モロッコの美容オイル、アメリカのスポーツタイツ、カナダのアイディア ゴルフ雑貨などノンブランド商品をウェブだけでなく、PR(広報)を活用しながらリアルでも販売します。

しかし輸入業という在庫、資金の先払い、売掛金の回収に時間がかかるビジネスモデルにてキャッシュフローを上手く回せず、また東日本大震災後の売上不振により挫折。。

約300万円の借金を抱え、深夜のアルバイト、派遣会社に勤めながらコピーライティングを習得しました。隙間時間でマーケティング・コピーライティングのノウハウを活用し集客の仕組みを作り、クライアントを獲得しながら借金を完済できました。


そして2014年2月から活動拠点をタイのバンコクに移す。

異国の地ながらも2年間で顧客ゼロから個人年商1億円を達成。実績を買われ2016年にタイで商社・物流会社を立ち上げ、経営の原理原則を元にマーケティングの知識と仕組み化を使って初月から黒字を継続中。

【活動中のWebサイト】

HPS Trade Co.,Ltd – 国際物流・商社サービス
RIMNAM Inc – タイ仕入れツアー・観光サービス

【追記】2018年3月
2016年11月に立ち上げた国際物流・商社 HPS Trade Co.,Ltdでは、初年度2017年度の経常利益はTHB8,092,507(約2,700万円)と上々の滑り出しを切ることが出来ました。

執筆中のブログ「ベッカク」では現在海外で活動されている方や海外進出を計画している方たちに向けて、「別の角度」で物事を考察できる「別格の存在」となるように、実際に役に立った事例や やらかしてしまった失敗事例なども含めてご紹介していきたいと思います。

さて、以下に私の詳しい自己紹介をさせて頂きます。2万文字近くあるのでお時間のある時にでも読んで頂ければ幸いです。

どん底転落編

はじめまして。飯野です。

現在、私はタイのバンコクにて商社・物流会社を経営しおります。バンコクに移住したのは2014年2月からでして、バンコクに来る前やそして来てからも、沢山の失敗をしながら、何とか今の状態までたどり着きました。

今回は自己紹介として、私の失敗談(メイン)と成功事例を赤裸々に書いていきたいと思います。少し長くりますが、お時間のある時に読んで頂けましたら幸いです。

調子に乗りすぎた20代後半

私は大学を卒業してオーストラリアに1年7ヶ月程留学をしていました。23歳から25歳までの時ですね。そして25歳の時に東京の商社に新卒扱いとして入社しました。

当時は部署で英語が話せる人が少ないという事で、ありがたい事に色んな海外で仕事をさせて頂く機会を頂いたんですが、どうもそのときの上司と合わず、「この会社にいても自分の将来は上司とか先輩と同じになっちゃう」という不安と苛立ちから副業を開始しました。

そして、幸か不幸かその副業(輸入通販)がいきなりうまくいってしまいました。月収でいうと70万円くらいの利益を毎月出せていました。26〜27歳くらいの兄ちゃんが本業の給料を合わせて毎月100万円くらい手にするわけです。それはそれは調子に乗ってしまいました。


あまり物欲のない私は、儲けたお金で自己啓発のセミナーとかにかなり参加しました。3日で50万円するジェイ・エイブラハム(世界的マーケティングコンサルタント)のセミナーに26歳の兄ちゃんが行くわけです。周りの人たちは経営者ばかり。自分は凄いのでは?と勘違いしてしまいます。

またビジネス心理学系のセミナーにも200万円くらい出して参加し、年上の経営者様たちと仲良くさせて頂きました。これも自分は凄いと思い込む勘違いの原因の一つです。他にもマーケティングのセミナーや教材に140万円程 使って、今思えば勉強している自分に酔っているようでした。


そんな自分は凄いと勘違いした若者は 会社をやめて独立してしまいます。当時28歳でした。毎月家賃5,000円だった会社の寮を出て、東京の江東区の8万円のアパートに引っ越しして、知り合いのつてで共同オフィスを借りて活動を開始しました。

いきなり暗雲が立ち込める

私は輸入通販をしていたのですが、うまくいっていたのは並行輸入と呼ばれるものでした。並行輸入は日本で売られている有名ブランド商品を海外で安く仕入れて、インターネットで販売するというもの。当時は円高という事もあり、為替と自前の英語の交渉力とで、かなり安く商品を仕入れてネットで販売をしていました。

並行輸入というのは割と簡単です。日本で売れている商品をリサーチして、海外で安く仕入れるところを探して、その値差で儲ける。英語がそれほど出来なくても、翻訳ソフトを使ったりすると出来たりします。また為替が良かったので、ライバルたちは一気に増えていきました。


ライバルたちがしてきたのは強烈な安売りでした。私の主力商品は1個あたり2万円の利益を取っていたのですが、ライバルたちは利益がどう考えても3,000円-5,000円ほどの価格で売っていたのです。他の商品もどんどんライバルたちに荒らされてしまいます。

まるでイナゴが畑を食べ尽くすかのように、市場はボロボロ。私の主力商品やその他の商品も付加価値を足したといえど、価格差が大きすぎると売れなくなるのです。


そんな値下げ合戦には早々に見切りをつけて、私は並行輸入から自社ブランドや海外のブランドの「日本総代理店」の権利を得たオリジナルブランド商品を扱うようになりました。

自分の無能に気がつく

共同オフィスには他の会社も入っており、その経営者さんたちと仲良くもなりました。そこで知り合ったのが、内装屋さんと不動産投資家の人たち。彼らは同郷ということでお互いを長く知っているようで、内装屋さんは不動産投資家さんをべた褒めしていました。

内装屋さんや不動産投資家さんにとってインターネットを使ってビジネスをしている私は珍しい存在だったようで、色んな仕事を回してくれました。記憶に強く残っているのは、国内ブランドのりんごジュースとシードルのWEBプロモーション、そしてオーガニックコスメの輸入販売です。

りんごジュース・シードルの販売に苦戦

りんごジュース・シードルの販売は苦戦しました。普通のりんごジュースとは違い、非常にこだわったリンゴを使い、糖度がむちゃくちゃ高いりんごジュース。そしてお値段も高い。シードルも同様に美味しいけど、ライバル製品より50%くらい高い。

このプロジェクトは予算がほとんどなかったので、HPを作成したけれどもそこからの集客がとにかく大変でした。SEOに効果があると言われているテンプレートを使うも全く反応がない。広告を使う予算もない。ブログを更新するも、そもそもりんごジュース、シードルという切り口では検索ボリューム自体が少ない。ネットからはほとんど売れませんでした。

当時の私は無力でした。



そこで取ったのはリアルセールス。主に売りにいったのはシードルです。「ガレット」にシードルは合うということで、ガレットを売りにしているレストランに食べに言って、リサーチをして、売り込む。

シードルは一般的なお酒とは違い少しのマイナーなとこがありますので、全く知らない人には「教育」から入らなければいけません。そんな時間もないので、すでに扱っているところに売り込む必要がありました。

それでも、かけた時間に対しては全然売れませんでした。ウェブでガンガン売っていた私にとって、商売を舐めていたと気付かされるいい経験でした。

ここら辺で貯金がなくなってきます。

コスメの定期購入ビジネスがちょいヒット

不動産投資家さんからアルガンオイルというモロッコの美容オイルの情報をもらいました。コスメなんて使ったことがないので、どうやろうかと 知り合いの女性に色々とリサーチをしてみると、このオイルは相当良い!というものでした。

このビジネスは仕入先の開拓から始まります。モロッコ大使館に電話をして、モロッコにあるアルガンオイルの販売企業の情報を入手。そこから片っ端にメールと国際電話をして、まともな業者を選定していきました。



ホームページを作り、お試しセットを作り、お客様の声として知り合いの女性たちに使ってもらう。またエステとかサロンを運営している女性経営者さんたちも紹介してもらい、有名ブロガーと呼ばれる女性たちにもブログでアップしてもらい、オンラインとオフラインを使いまくってプロモーションしました。精力的な活動もあり定期購入者がどんどん増えていきます。

詐欺師に騙される

定期購入者もだんだんと増えてきて、さあこれからだ!というところでしたが、この時の私は精神的にボロボロでした。自己資金に余裕がなかったので、不動産投資家さんから活動の報酬をもらっていました(本当にギリギリのお金)。

そうなると彼の意見を聞かないわけにはいきません。貯金もほとんどなくなっており、また定期購入者が増え続けていたのでこのビジネスはいける!と思っていたので辞めたくはありませんでした。



そうするとムチャぶりが止まらないのです。周囲の人たち、コスメの販売者に協力してくれた人たちも だんだん私から離れていきます。1人の女性が私のことを心配してくれて、その人(不動産投資家さん)から離れた方がいいと言ってくれました。

その時の私の顔つきは、生気もなく、死人みたいだったそうです。そこでやめると決意。彼と話し合いをして、すぐに事務所も出て行きました。



これは数年後に聞いた話しですが、この不動産投資家さんは詐欺で捕まったそうです。長野の資産家で裕福に見せていたけれども実際は資産と呼べるものはなかったそうな。

非常にいい経験をさせて頂きました。

なんとか食いつなぐ

貯金はほとんどありませんでしたが、この時 芸能人がテレビで紹介した商品があり、それを並行輸入で一気に仕入れたところ、飛ぶように売れました。資金的にはそれで少し回復。今思えば、並行輸入を続けていればよかったのですが、また自社ブランド商品を扱ってしまいます。



あるセミナーで知り合った人が、面白い商品があるという事で、仕入れ代金を出してくれる変わりに利益折半でゴルフのアイディア商品を扱いました。それは日本では全く知られていない商品で、カナダの小さな会社がオリジナル製品として販売していました。

並行輸入とは違いまた無名な商品を扱うわけです。広告資金もないので、どのように告知をするか考えたところ、プレスリリースを使ったメディアプロモーションを実行しました。



企画を作りゴルフ雑誌者にプレスリリースをどんどん送ります。プレスリリースの書き方・送り方は勉強と試行錯誤をしました。商品力もあり、採用されるプレスリリースをもあったので、その商品はどんどん雑誌に掲載されていきました。

いける!と思った矢先。そのセミナーで知り合った人が、権利を返して欲しいと言ってきました。売れてからそんな事をいうなんてムチャクチャだなと思い、突っぱねて引き続き販売をしていましたが、悪いことは重なるものです。

仕入先であるカナダの会社が倒産してしまいました。

下り坂を一気に転げ落ちる

どうにか売れるものはないかと市場をリサーチをしました。ランニングが好きだった私は、皇居の周りを走っている時にコンプレッションインナー(着圧の強いピチっとしたインナー)を着ているランナーが段々増えてきたなと感じていました。

当時のコンプレッションインナーといえば、SKINSとアンダーアーマーくらいしかありませんでした。インターネットを使い仕入先をリサーチをすると、アメリカのあるブランドを発見しました。その商品群と金額を見ると、SKINSやアンダーアーマーと比べて3割近く安い。

また当時黒しかなかったコンプレッションインナーですが、ピンクや黄色といったカラーバリエーションも豊富で、女性受けするのではと思いました。



早速このブランドに連絡し、メールと電話だけで日本総代理店の権利を結びます。私が最初にコンタクトをとった担当者はとてもいい人でした。先方も日本でのパートナーを探していたらしく、仕入れロットなどの条件もなしに、総代理店の権利を得ることが出来たのです。

またまた無名ブランドを取り扱うわけです。カナダのゴルフ商品とは違い、商品力はそれ程ありません。なので、この商品はブランディングから始めました。日本では誰も知らないブランドです。いくら価格的にメリットがある、カラバリがあるからといって、全く信用のないものは売れません。



私は人脈をたどり、お医者さん、トライアスロンの元日本代表選手、アマチュアトップ選手、プロゴルファー、元プロ野球選手(ヤクルト、日ハム)たちに商品を使ってもらい、ホームページで公開。そしてプレスリリースでは、アメリカの新しいブランドが日本初上陸ということで、数々のゴルフ雑誌やライフスタイル雑誌、またウェブメディアに掲載して頂きある女性タレントにも紹介してもらいました。

ブランディングがある程度出来たところで、最初は全く売れなかった商品ですが、次第に売れ始めていきます。しかし、ここで問題が発生。

資金が完全にショートしました。



スポーツインナーということで、種類(足用、腕用、スパッツ、シャツ、足首用など)があり、サイズ(S, M, L, XL)があり、更に12種類のカラー(メインの足用商品のみ)があります。一回に仕入れる金額は約30万円。

最初のサンプリングでいろんな商品を出していくことが出来ましたが、ブランディングやプレスリリースのおかげで売れ始めていくにつれて、売れ筋商品だけが売れていきます。この時に仕入先の担当者は変わっており、全体的に仕入れなければいけないとなっていました。売れ筋商品だけを仕入れて売るのはダメだったんです。



4回くらい仕入れた時に、売れない商品の在庫が山になり、完全に資金もショート。複数のクレジットカードで仕入をしていたのですが、カードの限度額もマックスで仕入れられません。銀行にも融資をお願いに行きましたが、こんなギリギリのところに融資をしてくれる銀行なんてあるわけがありません。

ギリギリの生活

この時、生活費を稼ぐために家の近くのあるチェーン店の居酒屋で夜11時から朝5時までバイトをしていました。時給が1,300円と高かったので。その代わり思いっきりキツかったですが。バイトから帰り4時間ほど寝て、昼前に自分のビジネス活動をします。

営業したり、ブログを更新したり、人に会いに行ったり、プレスリリースを出したり。家も8万円のところから、知り合いたちと一軒家を借りて月3万円の家賃のところに引っ越しました。バイトを週4ー5でやって月14万円くらい。ビジネスの活動資金(仕入れ以外)もそこから捻出していました。



銀行口座にお金がなく、米もなくなり、バイトの給料日までの2日間 水だけで生活したこともあります。財布には数円しかなく、うまい棒も買えませんでした。もちろん水道や電気、ガスは頻繁に止まることもありました。

同居している知り合いたちもお金には苦しく、年長の私がやりくりをして電気・水道・ガス代を先払い。冬場の水のシャワーはとにかく寒かった事を今でも覚えています。

ビジネスもうまくいかず、こんなギリギリの生活が約1年ちょい続きます。

東日本大震災発生で心が折れる

アマチュア トップのスポーツ選手を応援するベンチャー企業にコンプレッションウェアの提案をしに行った帰りです。知り合いと新宿にあるネパール料理屋さんで遅いランチをしていた時、あの地震が発生しました。

店内は停電時になり、ネパール人たちも慌てふためき、私たちも机の下でビビりまくりました。地震についてはあなたもご存知の通り最悪なことです。それについては割愛します。


この地震の影響で、今まである程度 売れていた 商品の販売がピタッと止まります。約2週間 全く売れなくなったのです。なんとか自転車操業で無理やりまわしていたビジネスですが完全にストップしました。

入金もストップしてしまい仕入れに使っていたクレジットカードの支払いも払えなくなるという事で、もう終わりでした。この時に完全に心が折れました。寝る時間も削り、走り回り、体力も削り、こんなに頑張ってきたのに。

残ったのは在庫と約300万円の借金でした。

※店舗系のビジネスではなく、主にネットを使ったビジネスだったので、借金はそれほど大きな額ではありません。ですが、金利18%だったので 当時の私にはかなりきつかったです。



東京で活動をしていたのですが、あのとき地元の京都に何度帰ろうかと思ったことか。しかし、最初の商社を辞める時に 親や友人たちに「成功する!」と大口を叩いた手前、簡単には帰ることは出来ません。都落ちと言われるのが嫌で東京にとどまりました。

借金返済編

借金は300万円で頑張れば普通に返済できる金額です。とはいえ、お金がなさすぎて初めて四苦八苦をしました。借金できるというのはまだ余裕があることなんですよね。私はブラックリストに乗りクレジットカードは作れないと思っていました。

1回いけるかな?と試しにカードを作ろうとして審査で落ちましたので。※後ほど審査のゆるいカード会社でカードを作ることが出来たのですが。

今回はビジネスを一旦ストップさせ、サラリーマンに戻り、借金をどのように返済していったかについてお話ししたいと思います。

派遣社員として働く

東日本大震災の2週間後 心が完全に折れてしまい一旦 自分のビジネスをストップする事に決めました。収入はバイトのみ。一旦ビジネスの夢はストップし、サラリーマンとして務める決意をしたので、深夜のブラックな居酒屋で もう年下の店長にこき使われる必要はありません。

そして、クレジットカードの支払いがあります。バイトの給料で支払いを少し済ませ、大至急で職に就かなければいけませんでした。そうなると正社員の職をじっくり探すという選択肢はありません。

選んだのは派遣会社です。とにかく夜中のバイト(特に私が働いていた居酒屋)はキツかったので早く辞めたかった。私には昔取った杵柄の英語という武器がありました。TOEICは850点を持っています(留学帰国直後ですが)。

英語が話せる人を必要としている仕事を探したところ、外資の国際物流業者(フォワーダー)の業務部門で産休を取る人がいるという事で、即採用となりました。これは非常にありがたかった。

英語なんて海外で仕事したり、旅行で使えて便利だなとくらいにしか思っていなかったのですが、この時ほど自分の英語力に感謝したことはありませんでした。

物流業者の業務の仕事はそれはそれは楽でした。居酒屋では洗い物中にグラスで指を切ってもバンドエイドをして、洗い物中を続行したり、すぐにビールを注いだり、配膳して、机をかたずけてとか、死ぬほど忙しかったし。

更に睡眠時間を削って自分の商売の為にずーっと活動していた私です。9時から18時までの間 PCに向かって英語で海外の業者と決まったやり取りをして、書類を作る仕事は楽すぎました。

しかし、お金がなかった私。昼ご飯は毎日 すき屋と吉野家の280円の牛丼でした。もちろんサイズアップやトッピングなんて贅沢は出来ません。あれだけ毎日 牛丼を食べていたせいか、体調はよくありませんでした。すぐに風邪をひいてしまったんです。食事が本当に大切だと実感できた良い機会でした。

アルバイトを始める

派遣で働いて3ヶ月で慣れてしまったのですが、急に別の同じ部署の人が辞めちゃったので更に3ヶ月間くらいは1人で2人分の仕事をしていました。私的には残業代が稼げてラッキーくらいに思っていたのですが、そのポジションに別の人の採用が決まり残業出来なくなりました。そしたらお金が稼げません。

18時くらいに仕事が終わるので、どうせならアルバイトをして借金を返済していこうと思いました。ちょうど家の近くのサイゼリアでバイトを募集していたのでキッチンスタッフとして20時から2時間まで働くようになりました。この時にサイゼリアの業務の凄さをバイトで体験することが出来ました。

バイトで未経験だったとしても、1ヶ月ほどのトレーニングでなんでも作ることができるようなオペレーションシステム。包丁を使わずハサミとパスタ用の鍋とオーブンで殆どの料理が完成します。ホールスタッフも1ウェイ3ジョブをこなし、とにかく効率よく仕事ができるようになるんです。とても良い経験にはなったのですが、少しだけ問題が発生します。

起床が7時で9時から18時まで派遣で仕事。家に帰って食事をとって20時から2時までバイト。帰って風呂に入って寝ると3時くらいです。そしてまた7時に起床。また睡眠不足になり、日中の業務が眠くてたまらないようになりました。

コピーライティングに出会う

日中の業務は常に忙しいわけではありません。あるマーケティング会社のメルマガをとっていて、たまたま、仕事の暇な時に読んだ内容に「コピーライティングを習得しないか」というような文言がありました。

コピーライティングというものは、当時 自分でビジネスをしている時の友人が、コピーライティングをしていたので知っていました。そう言えば彼はアメリカの教材とかを使って勉強して、結構稼いでいたなと思い出しました。


もともと私はマーケティングを勉強していましたし、ジェイエイブラハムもコピーライティングを書いています。マーケティングとコピーライティングというのは一緒にやったほうが良いんだなと思い、7万円くらいのする、そのコピーライティング教材を購入しました。

7万円あれば借金も返済出来るけどという葛藤はありながらも、さすがに昼の派遣会社と夜のバイトを3年以上続けるのは辛すぎる思い、清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入です。

コピーライティングの勉強は非常に新鮮でした。最初はただ単にバシッと決め言葉を書くようなものなのかと思っていたけれども、しっかりとリサーチをして、人間心理も勉強しながら、お客に行動を取ってもらうための手段だという事が最初の印象です。

特にリサーチについては、一般的な学術的なマーケティングのリサーチとは違い、とにかく実践的で、確かにこの事について調べるとビジネスの組み立て方からガラッて変わると実感しました。

早速 コピーライティングで仕事をとる

私はコピーライティングという武器を手に入れました。夜のバイトの回数を減らしコピーライティングでお金を稼いで借金を返済しようと思ったのです。経験のある並行輸入とかはお金がないし、クレジットカードもないから出来なかったので、コピーライティングのようなサービスを売るしかなかったんです。

26歳のころから独立を目指して勉強会だとか、起業塾に入って活動をしていたので、私には起業家の友達がいました。その起業家仲間に最近コピーライティングを習得したから、セールスレターを書かせてくれとお願いしたところ、友達は快諾。しかも10万円の報酬まで支払ってくれませした。なんという事でしょう。スキルがいきなりお金がに変わったんです。

今思うとその時のコピーは大した結果は出ていませんでした。しかし友達は私の事を気遣ってか報酬までくれたんです。本当にありがたい。



もちろん友達以外にからも仕事を取らないといけません。とある集客に関するセミナーで、参加者たちと話しをしている時にコピーライターだと自己紹介をしました。運が良い事に、その人(整体院経営者)はコピーライターを探しているとの事で、1本目のセールスレターを5万円で書かせていただく事にななりました。

1本目のセールスレターを書く時にリサーチをしっかりとしたおかげで、その社長さんから「ここまでリサーチしてくれるんですね」と褒めていただき、更に2本目のセールスレターを10万円で受注しました。

更にコピーライティングを勉強する

コピーライティングの仕事を通して ある程度お金が出来ましたが、借金を返せば良いものの、さらに高いコピーライティングの教材を購入してしまいました。勉強をして知識は上がったのであとはそれをアウトプットしなければいけません。

ある日、人からの紹介で美容商品のセールスレターを書く仕事を頂きました。また報酬が10万円入ります。新しい教材をで勉強会した事、特にリサーチですが、それをまたしっかりとする事でありきたりな美容商品にならず、「注目される企画」を作ることが出来ました。この時にコピーライティングは「コンセプト」が重要だと仕事を通じて学ぶ事が出来ました。




このクライアントもリピートで仕事を依頼してくれましたが、リサーチして、企画を作り、そして書き終わってから、リサーチのやり直し依頼などがあり、仕事を正しく進める事の重要性も実感する事が出来ました。後から思う事ですが、こんな感じで無茶を言うクライアントは結構いますね。

他にも司法書士さんの相続セミナーのチラシのコピーを作らさせて頂いた事もありますし、コピーを作る時の企画力を買われて自動掃除ロボットの販売企画担当として1つのプロジェクトにも加わらせていただく事もありました。

意外と減らない借金

コピーライティングの仕事案件を立て続けに取ったのですが、借金は思ったほど減っていませんでした。そりゃ高額な教材を購入するとキャッシュは普通に出て行きます。この時、派遣会社で働くようになってから1年半くらい。

私としてはバイトやコピーの仕事があるからすぐに借金を返す事が出来ると思っていたのですが、あまり減らない借金のせいで重要な事に気がつきました。派遣会社ってボーナスないよね。

私より半年くらい後に正社員として入ってきた女の子が普通にボーナスを2回もらっています。一方、1年半勤めた私にはボーナスなし。まあ、その分 バイトとかコピーの仕事とか気兼ねなく出来たのですが。とはいえ、借金返済にはボーナスが必要だと思うようになりました。

ブラック企業に入社する

派遣先で働いていた外資系の物流業者からは正社員にならないかというオファーはありました。その条件はカタールで1年の駐在をする事。正社員のオファーを受けたときは派遣にも関わらずルート営業をするようになっており、既存顧客の取引を拡大する事が出来ていたので。

カタールの駐在。カタールについてインターネットで調べてみると、宗教的な理由からお酒はダメ。あまり街も発展していない。正社員になれると言えど、カタールに行く理由はありませんでした。

しかし、私の目的はボーナスです。派遣で働きながら人材紹介会社を使い、正社員で働けるところを探します。25歳で留学から帰国し、そこから独立をしたといえど、私がずーっとやって来た事は「安く買って高く売る」というトレーディング(商社)の仕事でした。

やはり商社なのかなと思い、東京の商社で仕事を探しをしたところ、すぐに採用確定。東京にある雑貨商社の商品企画部でした。ここでは海外の商品を日本で売れるようにカスタマイズする企画を作り、実際に輸入までするという仕事でした。

まさに今まで自分がやって来た仕事。売れる商品を探し、輸入という物流もあるし完全に経験者です。更に売れる商品にカスタマイズする企画というのはコピーライティングの企画とほとんど同じです。コンセプト作りに関してはコピーの経験が役に立ちました。

正社員の仕事が決まった事で夜のサイゼリアのバイトは辞めました。キツかったがこのサイゼリアのバイト経験は後から効いてきます。

なんか変だと感じる

20人程の東京にある雑貨商社で働きはじめましたが、コピーライティングの仕事は継続していました。基本的に朝方の私です。朝4時に起床してコピーの仕事をやって、7時半くらいに会社に出社していました。

その雑貨商社の商品企画は面白かったです。会議でも売れる企画を作るために、オーソドックスなアイディア、斬新なアイディア、ふざけたアイディアを出していきます。上述したように私は仕事の経験者という事もあり、入社直後から色んな事を経験させてもらえ、また試用期間も一般的には2ヶ月ですが、1ヶ月でOKをもらえました。

試用期間が終わった直後くらいです。この会社は毎朝朝礼があるのですが、その朝礼で退社する人や入社する人が発表されます。変だと思ったのは、その回転の速さ。毎月と言っていいほど退社する人がいて、それを補うように入社する人が来ます。

変だなと思いながら、仕事に慣れていくうちにだんだんと忙しくなります。7半くらいに出社し、帰るのは22時や23時ごろ。18時で一旦 終業なのですが、会社ではここからだという雰囲気で仕事が継続されます。これが毎日続きます。

基本的に私は仕事好きですので、仕事時間が長いのは別に問題ありません。しかし、だんだんとあの退職者の多さの理由がわかってきます。社長からの直接指導。私は直属の上司から守られていました。

私の上司は本当に仕事ができる人で、私の事も気にかけてくれる本当にいい人でした。しかし、他の部署では役職者にそこまでの配慮がなかったか、ヒラ社員にまで社長からの指導がバンバン飛びます。20人くらいの会社ですので、当たり前といえば当たり前でしょうが。

しかし、あまりにも退職者が多いので、総務部が社長に直訴するためにデータを調べたところ、過去の2年で約40人が入れ替わっていました。約20人の組織なのに。

そして私にも直接指導が来るようになります。内容は割愛しますが、退職者が多い理由は分かります。社長は仕事以外ではとても良い人なのですが、仕事となると強烈でした。だから社長としてやってられるんですが。

結局コピーの仕事で借金を完済してしまう

ボーナス目当てで入った会社ですが、結局はコピーの仕事で稼ぐ事が出来たので、借金を完済する事が出来ました。平日の早朝と土日とでコピーの仕事をなんとかこなしましたが、仕事を継続的に得る事が出来たのは、クライアント様たちや起業家仲間たちのおかげです。本当に感謝をしております。

バンコクで働く機会を得る

商社で商品企画だけでなく、輸入も担当していましたので物流業者(フォワーダー)との商談も沢山ありました。ある日、いつものように残業しているところに、取引をしていたフォワーダーの営業担当者がいきなり来て、「タイのバンコクで仕事をする人を探しているんですが、誰か良い人いませんか?」と言われました。

ブラックな企業で働き、精神的に疲れていた私です。思わず、「私が行きます」といってしまいました。

その会社は物流業者として一部上場している会社。当時33歳だった私。23歳からオーストラリアに留学し、25歳で東京の商社に勤め、28歳で独立し、失敗。そしてスキルを身につけて借金も完済する事ができた。元々が海外思考だったので、良い機会だと思いました。

その雑貨商社に退職願いを出したのが11月上旬。受理されるのが12月上旬で退職は12月下旬。もちろんボーナスは出ませんでした。

そして2014年2月にタイのバンコクに飛び立ちました。

タイ現地採用から独立起業編

私がタイに来て会社設立まで、異国の地でもガムシャラに働き 現在に至った話をさせて頂きたいと思います。

いよいよバンコクの生活が始まる

2014年2月に私は東京からタイのバンコクに生活拠点を変えました。バンコクへの移動日 当日、大雪の影響で飛行機が飛ぶか飛ばないか微妙で2時間フライトが遅れるというハプニングにも出くわしましたが、無事にタイに到着しました。

タイは私が独立して儲かっていた時期に1回だけ友達と旅行に来たことがあるというくらいでした。ゴーゴーバーに初めて行って、何だここは・・と衝撃をうけたのがアメージング・タイランドの印象です。食べ物や生活、タイ人の性格など あまり良く分からない状態で移住を決めましたが、何も不安はありませんでした。

仕事について

私のタイでのミッションは、フォワーダー(国際物流業者)としてタイにある日系企業の貨物輸送の仕事を取るという新規開拓営業でした。契約はタイの会社の現地採用として1年契約の毎年更新。自動車、ドライバーつき、携帯電話支給、家賃補助とコミッションはなし。

ドン底とブラック企業を経験した私にとっては超好条件でした。ドライバーつきだなんて、なんて贅沢なと最初は思いっきり浮かれたものです。とはいえ1年契約です。結果が伴わないと首を斬られるんだろうなと思い、最初から必死に働きました。



タイのローカル企業(雇ってくれた日本の上場企業のパートナー)の事務所に場所を借り、英語が話せるアシスタントも1人もらって、お客とリストがゼロからの営業開始です。

フォワーダーとしての経験は派遣として働いていた時に、外資のフォワーダーで1年半ちょっと働いていたので基本的な事は理解していました。フォワーダーというのは自社の船や飛行機を持たず、船会社や航空会社にスペースをかりて、お客の貨物を運ぶというもの。

HISとかの航空券が格安なのも、HISがJALとかANAという航空会社にスペースをかりて、チケットを大量に一般顧客に売るから安いという感じです。今までやってきた他人のふんどしで相撲を取る商社の活動とほとんど変わりありません。

マーケティングのプロとして結果を出す

タイでの営業活動は最初から上手くいきました。お客を獲得してサービスを提供している時に何かしらの問題は大なり小なりありましたが、新規営業をゼロから開始して次々とお客を取れていったのです。

一度失敗して借金生活をしたといえど、副業で上手くいき、独立して色んな商品を気合いでプロモーションしたり、コピーライティングのスキルを使って次々とクライアントを獲得してきた私です。

会社のリソース(人・金・物・情報)をふんだんに使い、最適なマーケットを選び、マーケットに合った最適なサービスを提供するという、マーケティングの基本を実施する事でお客は簡単に取れていきました。

会社のプレゼン資料もコピーライティングのスキルを使い、お客に魅力的に伝わるようにも工夫をしました。

現場対応にちょっと苦戦

私が働いていた場所はタイのローカル企業です。日本人は私が1人だけで、あと全員タイ人です。30人くらいの会社ですが英語が話せるのは社長を含め5人くらい。ドライバーにいたっては全くと言っていいほど英語がわかりません。

ドライバーとの会話が最初の難関でした。これくらいわかるだろうという基本英単語もわかりません。必然的にタイ語を勉強する事になります。ドライバーだけでなく、アシスタントもやはりタイ人。

タイ人ならではのサバーイサバーイ(お気楽)が大前提にあります。私のお客は基本的に日系企業なので日本レベルのサービスを求められます。タイ人スタッフ達にこの日本レベルを理解させる事が大変でしたね。

でも、これらは全部 タイで働く日本人あるあるです。愚痴ったところでしょうがないので、スタッフ達としっかりとコミュニケーションを取るように心がけました。私の社員旅行、社員飲み会の参加率は100%です。お酒を交わしながら、タイ人スタッフ達の懐にかなり入っていったと思っています。

タイでの生活

タイに来て仕事ばかりしているわけではありません。休日はしっかりと休みますし、やっと人生をエンジョイし始めました。思えば、独立をしてからずーっと働きづめでした。借金返済の為に昼間働きながら、夜はバイトとかもしてるし。

またコピーライティングの仕事も朝や土日にやっていたので、休みという休みはほとんど取っていませんでした。借金からも解放され、仕事も上手く行き始めて だんだんと心の余裕が生まれてきます。とは言え、もともとが貧乏性な性格。

普段から食べているのは安いタイ料理です。一食 120円くらい。朝食は屋台でフルーツを切ってくれるオバちゃんがいるので、毎朝フルーツ。昼は会社の近くでタイ料理を食べて、夜は晩酌をせずにソーダ水を飲んで、野菜中心のおかずとスープだけを食べます。お陰様でこの記事を書いている現在は身長179cm, 体重 68kgと健康的な体型です。

休日はゴルフやウェイクボードに行ったり、カフェで読書したり、ドライブ(自分で運転)に行ったりします。旅行にも行くようになりました。タイ国内では頻繁にパタヤやファフィンのビーチに行きますし、海外ではラオスやフィリピンのマニラにも行きました。

毎月 誰か友人が1人は日本から来ます。大体 起業家仲間が多いですね。一緒に飲んで遊んで、仕事をするときは仕事をしています。

原理原則に出会う

ある日、私の師匠がタイに来てくれた時 一緒に食事をさせてもらっていました。他のクライアントさん達も連れてこられるので、タイを頻繁にアテンドさせて頂いているのですが、その中で「原理原則」というお客の勉強について教えてもらいました。

それは、H&M, ZARA, ユニクロ、セブンイレブン、ニトリ、吉野家、しまむら などの大手チェーンストアが展開している方法。大手企業が大手になった理由とも言える、お客を主体とした商品の開発方法であったり、サービスの提供方法を学ぶ事が出来るものです。

驚いたのがサイゼリアのオペレーションがこの原理原則 通りというものでした。あの派遣で働きながら夜にバイトとしてお世話になったサイゼリア。バイト中もそのオペレーションシステムは凄いと思っていましたが、講義を受けて 内容の理解が深まると、そのサイゼリアの業態がいかに優れていたかがよく分かりました。

そして原理原則にはまり込み、DVDの講座を何度も見直し、すぐに自分の活動にも取り入れました。

一気に売り上げを伸ばす

この原理原則に出会ったのはタイに来て半年くらいした時です。当初からマーケティングを実施し、お客を次々と獲得していっていた私ですが、この原理原則を活動に取り入れることでお客の獲得が加速しました。

それまでは毎月の新規顧客獲得件数が 1件、2件とかでしたが、一気に倍の4件とか獲得出来て、更にお客のリピート率も非常に高くなったのです。継続的なリピートに関してはタイ人スタッフ達の協力が必要なので、タイ人の人材育成にも原理原則を積極的に活用しました。

初年度の売り上げは約4,000万円。私がタイにきて約3ヶ月で自分の給料分を稼ぎ、半年が経つ頃には自分、アシスタント、ドライバー、車、接待交際費、などの全ての経費を稼ぎました。半年で黒字化に移り、あとはお客を獲得すればするほど利益となります。

初年度はボーナスなしという事でしたが、利益をしっかりと出しましたので 念願?だった ボーナスを得る事が出来ました。※借金返済記を参照

ヘッドハンティングされまくる

現地採用の社員にもかかわらず、次々と仕事を獲得していった私です。基本的に現地採用というのは駐在員と比較してコストが安い。大体3分の1くらい。駐在員は家賃補助や駐在手当や、家族手当とかなんやかんやついて、20代の若手とかでも1年間に1,000万円以上のコストがかかります。

私の場合、コストの安い現地採用が次々と仕事を獲得して、しっかりとサービスをするもんだから お客さんや同業者から「うちで働きませんか?」というオファーを沢山もらいました。

更に最初に日本で私に声をかけてくれた一部上場企業も「うちの駐在員として働いてくれませんか?」とオファーを頂きました。多くの人に結果を認めて頂いたようで非常に嬉しかったのですが、全てお断りをさせて頂きました。

理由としては、この時に独立願望がまた出てきてしまったからです。ヘッドハンティングを受けてしまうと、収入は上がるかもしれませんが、束縛もされるし日本の本社とかからの要請にNOと言いづらくなります。私としては、ほぼ100%自分のコントロール下で全ての仕事がしたかったので。

個人年商が1億円を突破する

タイにきて1年半が経ったくらい、最初は1人だったアシスタントが3人に増えました。3人くらい いないと回らないくらい仕事をとっていましたので。新規開拓の仕事は順調に進んでいきます。1件数万円の小口の仕事から1件 2,000万円を超える大口の仕事まで全て責任を持ってやりきりました。

2年目の私の個人成績は約1億円の売り上げを超えていました。利益も十分に残しています。タイに来てお客がゼロから、2年でここまであげる事が出来たのは「周りのサポート」と、今まで積み重ねてきた「学び」のお陰と、「運」だったと思います。

新会社を立ち上げる

タイのローカル企業に机を置いて活動しており、そのローカル企業の社長には非常に可愛がってもらいました。その社長は中華系タイ人で1代で会社を興して、現在では7社のグループ企業を作っています。いうなればムチャクチャお金持ちです。

グループ会社の社長たちが集まる食事会にも何度も参加させてもらい、また仕入先の大手船会社の副社長が参加するような会食にも同席をさせてもらいました。一緒に日本に出張することもありました。

2年でグループでもトップの稼ぎ頭になった私に、新会社 経営の機会をくれました。「好きにやっていい」。今までの結果を見てくれていたお陰か、全面の信頼を得て 再度 独立する事になりました。

2016年7月 会社の登記も完了し、また一からのスタートです。現在35歳。25歳にオーストラリアから帰国し、社会人として歩み始めて10年です。振り返ってみると、この10年間 自分の無知とわがままのせいで色んな事がありました。本当に多くの人たちに迷惑もかけましたし、また多くの人たちに支えても頂きました。

今後 成長していくであろうアジア、東南アジアのマーケットで、これまでと変わらずガムシャラに前に進んでいきたいと思います。

追伸

長文の自己紹介をここまで読んで頂きましてありがとうございました。ご紹介したとおり、私は沢山の失敗を重ね、多くの事を学ぶ事が出来ました。もし今 あなたがビジネスでちょっとした困難をむかえているというのであれば、ご相談ください。こんな私でもあなたのお役に立てるかもしれません。

「人生とは本来、極めて相互依存的なものである。相互依存的は、自立よりはるかに成熟した高度な概念である」 by スティーブン・コビー博士